第八十六話 もう食べられます篇
焦った吸血鬼は、お腹を空かせることにした。
「おっと、いやあ待ってくれ。もうお昼を過ぎているじゃないか!」
ミカが次のショットを打つ前に、吸血鬼はよく聞こえる声でそう言った。
「えっ、もうそんな時間っすか?」
「そうだ。まだお昼の準備をしていない」
吸血鬼は胸元から懐中時計を取り出して、文字盤をミカとエリザベスに向けて見せた。館には時計やカレンダーといった日付を表すものがなく、時間は吸血鬼の私物の懐中時計頼りだ。繊細そうな短い針が既に「1」を指しているのを見て、ミカがお腹をスリスリと摩った。
「今日は壁の修理に時間を取られたから仕方がない」
「あ、ぞういえば、まだここの壁を直じでいまぜんでじだわ」
エリザベスがポンと両手を打って、そそくさと工具を持つ。
「お二人は、どうぞ先にお昼食を取っでぐだざいまぜ」
「え、いいっすよ、俺手伝います」
「二人で作業ずるスペースはないでずじ、穴は一つだげでずがら、わだぐじ一人で十分でずわ」
「じゃあ俺ら待ってますから、一緒にご飯食べましょ? 俺らまだビリヤードしてますから」
「だめだよ、先にキッチンに行って、昼食を用意しておく。君はこっちを手伝ってくれ」
「ちぇっ、せっかく調子出てきたところだったのに」
ミカは冗談ぶって舌打ちをしてから、キューを壁掛けのラックに戻した。
「君、レディが断ることをわかっててわざと『手伝う』と言ったな。昼食を遅らせて、ビリヤードをするために?」
「ちょっと言ってみただけっしょ?」
「人の厚意を利用しようとするのはよくない」
「おまえが言うことじゃないでずわ」
ぼそっと、エリザベスが言うのを、吸血鬼は無視することにした。
吸血鬼はミカに続いてキューやボールを片付けると、ふと不思議そうに言った。
「お腹空いてないのかい?」
ミカはまたお腹を摩ると、首を傾げる。
「空いてるっすけど、耐えられないほどでは? 朝飯がまだ効いてるっすね」
「朝飯が効く」
「んー、若ざでずわねぇ」
側で聞いていたエリザベスが、壁の穴を塞げるサイズの木材を選びながら、つい口にしてしまったというように呟く。
「逆じゃないか? 若者といえばすぐに腹を減らすだろう」
おしゃべりを続けながら、吸血鬼とミカは遊戯室を出て、キッチンに向かう。
歩きながら、吸血鬼が言った。
「意外に食より遊びのタイプだったか」
「メニューにもよるっすね。肉だったら最高」
「すまないな。この館ではベジタリアンになるのが決まりなんだ」
ミカは吸血鬼をチラリと見上げて、仏頂面で鼻息をフンと噴き出した。
「……あのね、吸血鬼さん。俺、吸血鬼さんのこともエリザベス姉さんのことも、二人とやったやり取りとかも、ちゃんと全部思い出しましたからね」
「……薄々は感じていたが、なぜ今」
「吸血鬼さんがいきなり肉出してくれなくなったことも」
「なっ、そういう当てつけを言うために重要な話を前振りにするな!」
「……」
「……」
そこで、ミカは何やら目を逸らし、俯き加減に歩き始めた。どうやらこれ以上、自分の記憶が戻ったことについて語る気が起きないようだったが、触れてほしくないというよりも気恥ずかしさが勝っているようだった。
吸血鬼はあえて、食事についての話題を続ける。
「……え? なんだい? 肉類がないから私のご飯は不味いとでも?」
「やぁ、美味しいっすよ! でも腹満たすってなると、どうしても肉を期待しちゃうんす。そういうもんなんす」
「ふうん」
キッチンに着いた二人は、まず朝食の残りのスープの量を確認した。もう一度火にかけて温め直すとして、もう三、四品はなければ寂しい量だ。
一品はサラダを作るとして、残るはパン、それからメインディッシュが問題だ。
「ミカは何が食べたいって訊いても肉って言うだろうからなぁ」
「そこまで言ったなら訊いてくれたっていいじゃないですか、一回くらい」
「じゃあ何が食べたいの?」
「今の流れで肉以外なことあると思います?」
「なんでこのやり取りさせたんだい」
作業用のテーブル下にはいくつかの麻袋があって、中にはジャガイモやニンジン、玉ねぎ、ニンニクなどの野菜が種類ごとに分けて保管されている。吸血鬼はシャツの袖を捲ると、袋の中から大きなジャガイモを三つ取り出した。それを見た途端、ミカは自分のリクエストが無視されたことを察して地団駄を踏む。
「また蒸かし芋にする気でしょ!?」
「そだよ」
「嫌っすよ! 蒸かし芋は主菜じゃないでしょ副菜でしょ! だいたい、なんでいきなり肉禁止とか言い始めたんすか!」
「なんでかってー?」
ミカの怒りを含んだ物言いに、吸血鬼の頭の中では、館の食卓で肉を禁止しようとした経緯が自然と思い出された。あれは、セレーンが極夜の館から出て行ってしまった日、正気を失って眠れなくなった夜のうちに、もんもんとなった頭で考えた策の一つだった。
セレーンを館から失ったことで、家族の一人を失くしたと思ってしまった。これ以上家族を失うことを、吸血鬼は深く恐れて傷ついていた。
当時、ミカは館に来る前の記憶がなかったが、もしその失われた記憶が戻れば、セレーンに続いてミカまでもが館を出て行ってしまうのではないかと思った。逆に記憶が戻らなければ、ミカを館に留めておけると思った。
しかし、セレーンを失った日の夜、吸血鬼を慰めようとするミカは、吸血鬼の金髪を見て「月のようだ」と言った。狼男と、切っても切り離せない月を、連想したと。
吸血鬼は、何か日常の些細な出来事をきっかけに、いつかミカが、自身は狼男であると気づく時がくるのではないかと恐れた。それは、ミカが館に来る前の記憶を思い出すことと同義であるだろうと。
肉食を禁止したのは、そういう「日常の些細な出来事」というきっかけを作らないためだった。ミカが肉好きなのは、狼男であるせいなのかもしれないと思って。
「なんでかって、君がね、狼になることを恐れていたんだよ」
ミカが目を丸くした。吸血鬼は、ミカ本人に言える範囲で、肉食を禁止した理由を説明してみる。
「君が狼になれることは知っていたんだよ。私だけじゃない、レディ・エリザベスもだ。でも、君が気づいていなかったから、こちらも、ずっと気づかないつもりでいた。あるとき急に、君が肉食を好むのは狼男だからかと思い至って、怖くなったんだ。君が狼になって、君が、戸惑ってしまうことを」
「俺が狼になって、吸血鬼さんや姉さんを襲うかもしれないって?」
「そうじゃない。君は人間でいたいんだろうと、そう思っていたということだよ」
吸血鬼は、今、自分が情けなかった。本当に恐れていたことをひた隠して、なんて聞こえの良いことを言っていることか。ミカに伝えたことは嘘ではないが、肉食禁止は、そんなにミカのためだけを思って生まれた発想ではない。
しかし、ミカは吸血鬼にちゃんと信用を置いていた。吸血鬼の言葉を疑うことはなく、吸血鬼の気遣いは、ありがたいことだと思った。ただ、ありがたくも理不尽である。
「肉、関係ないっすよ」
「うん、肉とは関係なく、狼になってしまったね」
吸血鬼はミカの後ろの扉、つまり、食糧庫の扉を見た。
「そう。肉は関係がなかったから、今日のお昼はハムを焼こうか」
「加工肉!!」
「ちょっとずつ解禁だ」
「今更、何を恐れるっていうんすか!」
「私にだって感情がある。一度禁止したものを、勘違いだったと認めて解禁するという行為に、気まずさを感じたりとか」
「ダッサ!!」
「なんだハムは嫌いなのか」
文句があるのかと問われ、ミカは目玉をクルリと上に向けて、しばし考える素振りを見せた。さて、考えてみれば、ハムは全然嫌いじゃない。むしろ好きだ。ジューシーに焼けた肉厚のハムを齧り、舌を脂に濡らすところを想像すると、吸血鬼とかいう見栄っ張りのビビりのチキンに、少しくらい付き合ってやろうという気が起きてくる。
ミカは、湧いてきた食欲に涎を垂らしそうなところを慌てて取り繕い、吸血鬼に呆れたという顔をして、「仕方なく渋々と引き下がる」ふりをして答えた。
「いいえ〜? ハムのことは、好きっすよ〜。ハムには、罪はないですからねぇ」
吸血鬼は、ミカの心情などその表情変化からすぐに察していた。「ハム好きならいちいち文句言うなよ」と思いながら、ミカの不器用な抵抗を可愛らしく感じる。苦笑いしながら、「夕食には、ちゃんと肉料理のメニューを考えておく」と言ってあげた。
その瞬間、ミカのわざとらしい眉間の皺も、とんがらせていた唇も全部引っ込む。
「言ったっすね!? 絶対っすよ!? あー、やっと飯にできる! 腹減ってしょうがないんすよ!」
ミカは満面の笑みとなって食糧庫に走っていき、興奮からか途中で狼に変身してしまって、服をビリビリに割いた。さっきまで別にお腹空いてない、とか言っていたくせに、好きなものが食べられるとなるとこれだから、子供って奴は。
吸血鬼はそう思いながらふと、狼は餌がなくとも1ヶ月くらい生きられるという話を思い出した。もしかして、肉を食べられる時には食欲旺盛に食べて、野菜など肉以外のものしか食べられない時には、あまり空腹を感じないような身体をしているのだろうか。
もしそうなら、より好き嫌いなく食べてもらおうと決意した。ミカには人間らしく生活してもらいたい。
ミカは狼らしい大きな口で、器用に食糧庫の扉を開けていた。吸血鬼はその背中に慌てて、
「ハムを口で咥えてくるのはやめてくれよー!」
と釘を刺した。




