第八十四話 遊戯室篇
「うわっ、やっぱ空気こもってるっすねぇ。でも、大広間の時ほどじゃないかも」
意気揚々と入室したミカは途端に鼻に皺を寄せて、そんなこと言う。吸血鬼が振り返って廊下の方を指差した。
「ミカ、携帯用の蝋燭を持ってきてくれ。ここの燭台は埃を被っていて使えない。取ってきてくれているうちに、空気はいくらか入れ替わるはずだよ」
「了解っす」
隠し扉だった入り口は開け放しているし、部屋に窓はないが、壁に大きな穴が空いている。ちょうどそれらが対応する二つの通気口となって、風が通っていた。
しばらくして戻ってきたミカは、数本の蝋燭で室内を照らす。わずかな火にぼんやりと浮かび上がった室内を見て、エリザベスが感嘆の声をあげた。
「本邸にあっだような、立派な遊戯室でずわ!」
「遊戯室ってなんなんですか?」
ミカは、目を輝かせるエリザベスに尋ねる。こんな反応をするのは、吸血鬼のコウモリたちが新しいドレスを買ってきてくれた時以来だ。もうずいぶん昔のことである。
「遊戯室どいうのば、ビリヤードなどのゲームをずる場所でずごどよ。パーティーの後などは、大事な社交の場になりまずわ」
「ビリヤード……やったことないっすね」
ミカは部屋の中心に置かれた大きなテーブルに近寄り、その上に転がされた球を一つ手に取る。埃被ったそれには、ミカの指のあとがくっきりとついたが、ちゃんときれいな球形をしている。
「ゲームといえば、トランプばっかりでしたよ」
「ふうん、君、ビリヤードわからないのかい? 私はやったことがあるよ。まず基本として、これは棒で球を突き、テーブルに空いた穴に落とすゲームだ」
吸血鬼は、なぜか少しだけ自慢げに鼻を上向け、壁に飾るように仕舞われたキューを指差し、その後ミカが持つ白い球を指す。
吸血鬼は、母国の大学で仲間たちと遊んだ時を思い出し、懐かしみながら語っていた。
「直接打てるのはその白い球だけだが、手球は落としてはいけない。球で球を弾くようにして、自軍の色ボールだけを穴に落とす」
そう言ったところで吸血鬼はビリヤード台の上を見渡し、眉を顰める。
「球が二個しかない」
「何言っでまずの。ビリヤードは、自分のボールを先にポールに当てるゲームでずわよ。ぞの際、ゲートを潜らぜる必要がございまず。穴に落どじでばいげまぜん」
吸血鬼の背後から、エリザベス嬢がビリヤード台に近づいてきて、呆れたように台の上を手で示した。言われてみれば、確かに台の中心から少し端に向かってずれたあたりに、吸血鬼にとっては見慣れないゲートが設置されている。それと対称の位置にはポールのような障害物のようなものもあって、まるでゲートボールのフィールドのようだ。
「え? 昔のビリヤードってこんななの?」
思わず、怪訝そうな言い方をしてしまう吸血鬼。エリザベスはミカにビリヤード台の穴の位置を教えてやりながら、片手間に吸血鬼を煽った。
「紛れもなぐビリヤードでずわよ。わだぐじはひとがやっでいるのを見るばがりでしだが、ルールだげなら知っでおりまずわ。逆に貴方、やっだごどありまぜんの?」
「私の時代のものならやったことはあるさ。旧形態なんて知るものかい。そもそも、遊びには疎いんだよ、昔からね」
吸血鬼にとって、人間の大学で人間の仲間たちと一緒に遊んだ思い出は、案外と大切なものになっていた。
「やり方は全然違うんすか?」
ミカが興味ありげに言った。良い年した二人がみっともなくやり合っていることはどうでもよく、突然新しく手に入れた遊戯に、胸が高鳴っているようだ。最近、物騒なことばかり起こっていたから仕方ない。
吸血鬼は気を取り直して、ミカに笑いかけた。
「どうやら違うみたいだけど、何もルールに囚われる必要はない。私の時代のビリヤードでは、技の美しさを競う『アーティスティックビリヤード』というものもあった。ビリヤードは長い時を経て、多様な楽しみ方ができるようになったんだよ」
それを聞いたエリザベスが、少し寂しそうな顔をする。
「わだぐじの時代にも、ぢょっど変わっだ技を特技にじでいる方はいらっじゃいまじだ。未来の発展は、わだぐじだぢの気まぐれな遊びがら生まれでいるのでず」
エリザベスはふと、思いついたように吸血鬼たちに背を向け、壁からキューを取り外す。そして、吸血鬼の鼻先に、まるで剣のきっさきを突きつけるようにキューを向けた。
「言うばかりでは収まりまぜんわ。貴方の時代のビリヤードどやら、ミカに見ぜであげてくだざいまぜ」
「え」
珍しくも吸血鬼が、ごくんと唾を飲み込んだ。




