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第八十話 翌朝篇

 ミカが目を覚ますと、そこには見慣れた白い天井があった。腹の空き具合からしてもうとっくに朝だろうが、窓から朝日は差し込んでいない。なぜなら、この館の窓は全て木の板で塞がれていて、そして館自体も、堅固な茨の檻の中に閉じ込められているからだ。


 夢で、過去の出来事を追体験していたようだった。ミカの意識の時間軸は過去と現在で揺れ動き、状況を整理できないような、軽い混乱に見舞われる。


 ミカはベッドの上で起き上がり、ぼんやりとした頭を片手の付け根でトントンと叩いた。寝惚け眼は古びたフローリングの上を滑り、ふと窓側の壁の端で視線を止めた。そこの壁には穴が空いていて、まるで殻から頭を覗かせたカタツムリのように、太い茨の枝が突き出している。ミカはこれと同じような光景を、昨夜、玄関ホールの壁で見た。茨の森は、昨日から館に向けて急接近を始めていたが、たった一日で部屋の壁を突き破るまでに至ったのだ。


「いつのまに……」


 ミカが壁の悲惨な現状を眺めていると、コンコンと部屋の扉がノックされ、間も無くして吸血鬼が中に入ってきた。


「やあ、おはよう。起きていたんだね」


 吸血鬼はまず穏やかに挨拶した後、ミカの視線を追って壁の惨状を見るや、あちゃーと言うように額を手で覆った。


「ここもかぁ。酷いんだよ。館の至る所、茨の枝で貫かれている。私たちの家が、まるでチーズみたいだよ」


 吸血鬼のジェスチャーは、あからさまに困った様子を示していたが、それにしては表情が明るく、瞳はキュッとお茶目に閉じ、口角は緩やかに上がっていた。その様子を見ていると、茨の枝がどうなっているかなんて大した問題ではないという気持ちに、ミカはなってきた。


 吸血鬼の手には食器用トレーがあって、湯気立ち上る卵スープが乗っていた。スープ用マグカップの横には、小さくちぎられたパンの山。食べやすいようにという吸血鬼の心遣いである。もしかして、病人扱いをされているのではと、ミカは少し眉を顰めた。


 吸血鬼は、スープを溢さないようにゆっくりと近づいてくると、飲料水が入ったグラスをミカに手渡しながらこう言ってきた。


「今朝は、起き上がれない可能性とあると思ってね。朝食を持ってきたんだが、どうやら元気そうだね」

「何を心配してんすか。病気になったんじゃあるまいし」

「筋肉痛とか、あるかもしれないと思って」


 暗に昨夜の大暴れの件を言われ、揶揄われたと思ったミカは少し不貞腐れる。


「あの……すいませんでした」

「ああ、そうじゃない」


 吸血鬼はベッド脇のテーブルに朝食を置くと、ミカの頭から頰にかけてを両手で大きく撫でた。

 彼は少ししゃがみ込み、ミカと視線を合わせて言う。


「いつの間にか、いつもの君に戻っていて良かった。記憶を無くしていた頃の君は、よそよそしかったからね」

「……そうすか」

「朝食は下で食べるかい?」

「いや、ここで。せっかくなんで」


 ミカはスプーンを手に取ってから、「あの、ありがとうございます」と付け加えた。


「あ、吸血鬼さん、姉さんは?」

「んー、エリザベス嬢かい? ほら、昼のうちに対処しなければならない工事作業があるだろう?」


 そう言う吸血鬼の視線が、茨に貫かれた壁の方へ向くのを見て、ミカはパンのかけらを三つ一気に口へ放り込んだ。


「俺も手伝います」

「ああ、ゆっくり食べてくれたので大丈夫だ。エリザベス嬢だって、昨日の今日で君を働かせることは望んでいない。……余裕があれば手伝ってくれたのでいいから」

「……」


 それでも不服そうなミカの顔を見て、吸血鬼は呆れたように笑った。ミカの頭を軽く小突き、その手をバイバイと振る。


「じゃあ、食べ終えたらトレーをキッチンに持ってきてくれ」


 そう言い残して部屋を出て行こうとする吸血鬼の背中に、ミカは強い声で「吸血鬼さん!」と呼びかけた。それと同時に、ベッドから勢いよく立ち上がる。


「何だい? ミカ。……ミカ? どうした?」


 振り返った吸血鬼は、ミカの決意が籠った瞳を見て不安げに首を傾げた。


 ミカは仁王立ちで両手を握りしめ、心の中で強く、強くなることを念じる。血液を沸騰させる。頭に血が昇ってふらつく感覚を意図的に得る。まっすぐ前を見ると、月のような金髪と、丸い瞳があった。その瞳をじっとじっとじっと見ていると、やがて視線の一点を残して視界が歪み、自分が猛スピードで後ろへ退がっているかのような感覚を覚える。


 やがてミカの身体は変形し、体毛が全身を覆い始めた。


「ミカ!? どうして!?」


 突然、狼に変貌したミカを見て、吸血鬼は驚愕に表情を染め、一歩二歩と後退りした。

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