第七十九話 月の形はどうだった?篇
「では、訊こう。要観察患者番号203番くん」
博士は車の助手席でゆったりと目を閉じる。ここから先は、二人が何度も繰り返してきたやり取りだ。博士はミカの方を振り返らずに喋るが、彼の言葉はミカの頭の中へ確実に届く。
「君の名前は?」
「ミカ」
「出身は?」
「ド田舎の羊農家。父さんと母さんの手伝いをしてる」
「学歴は?」
「義務教育まで。あ、姉さんはまだ勉強を続けてるんすよ。姉さんはすごいと思うけど……、俺はいいや。耐えらんねぇし。みんな怖がるし」
「ふむ。君のお姉さんは相変わらず優秀だね。次、誕生日は?」
「三月二四日」
「その日、月は何色だった?」
「知らない」
「月の形はどうだった?」
「見てないから知らない。ってか覚えてない」
「君の母は?」
「クリスティナ。さっき会ったでしょ」
「君の父は」
「オットって名前。今日は朝から仕事に行ってていなかった。ばあちゃんの名前はアリサね。オットの母ちゃん。家にいたけどあんたには会ってない」
「君は一体どこから来たんだ?」
「……。知らない。覚えてないっすよ」
この一連の会話を、博士はいつも「精神分析療法」と呼んでいる。最後の質問の答えを聞いた後、博士は演技くさい程の大きな溜息をついた。
「うーん、やはり記憶は戻っていないか」
「記憶の問題じゃないっすよ。あんたの質問がおかしいんだ」
ミカが半ば諦めたようにそう呟くと、博士は意外にもそのミカの意見を拾い上げ、「ほう、おかしいとは?」と問うてきた。
「僕の質問の、何がおかしいと言うのかな?」
「えっ、だから……。月がどうとか。どこからきたのかとか! どこからってったって、あんた、俺を家まで迎えに来たじゃないすか」
「はははは、ミカくん。君の指摘は間違っている!」
博士は高らかに笑い声を上げて、チラリと後部座席を振り返った。
「ミカくんは小さい時に一度病気になって、今もその症状は治っていない。君はその病気が原因で、昔の記憶が一部なくなったままなんだよ」
「子供の頃の記憶なんてないのが当たり前でしょう」
「そうじゃない。君には思い出してもらわないといけないんだ。君の病気の原因は、君の過去にあると思われるんだからね。さっきの質問内容は、君の記憶を呼び覚ますためのものだ。だけど、今日も上手くいかなかったみたいだよ」
それから、博士は一方的に喋り終えて、また前向きに座り直してしまった。博士はミカの病状について何だかんだと捲し立てるが、ミカからすればその様子は、博士が自分の仮説を正当化するための言い訳を述べているようにしか思えなかった。
「もう来ないでほしいんすよ。うちは、あんたが思ってるより小さな村なんだ。病気の子供がいる家族ってだけで変な目で見られる。その上、都会の変な医者にかかってるってんだから、俺の扱いなんか化け物みたいなもんだ」
ミカはそう言ってしまいたかったが、そうすると博士が反論してくると思うと、良い加減辟易して言えなかった。代わりに車窓の景色でも見たいと思ったが、顔を横に向けても、屈強な男の胸板が邪魔で見えなかった。
やがて、長く車に揺られる程にミカの眠気は増してきて、最後にはぐっすりと眠りについた頃、一行は目的の場所に辿り着いた。
その大学は街中に位置する修道院に隣接し、礼拝堂やら宗教関係の建物と同様に、四角い家に先の尖った屋根をいくつもくっつけたような形をしている。
車が接近してくるのを確認した守衛が門を開けた。街に入る頃には、車の窓にはカーテンがかけられ、中の様子は完全に秘匿されていた。




