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第七十七話 ミカの誕生篇

 一九六五年、三月二十四日。山地に近い田舎の羊農家に、狼の子供が生まれた。

 羊農家にとっての天敵たる狼とはいえ、新しい命の誕生とは喜ばしいものだ。

 その子供が、人間の女性から生まれたのでなければ。

 その狼の通った産道が人間のものでさえなければ、こんなにも家族とその子を苦しめることはなかっただろう。尤も、もし子供の生まれた場所が都会にある病院等であったとしたら、この怪事件はもっともっと騒ぎになっていたはずだ。実際に件の女性が狼の子供を出産したのは地元からほど近い修道院だった。出産を手伝った気の毒な修道女は、地元の医者と他の修道女、それから出産に喘ぐ女性の親族に囲まれて、焦茶色をした毛むくじゃらの赤ん坊を取り上げた。

 助産室内は、たちまち女性たちの甲高い悲鳴に満ちた。その中に、子供の産声はなかった。

 毛むくじゃらで鼻筋が長すぎる赤ん坊を見た神父は、これは只事ではないとすぐさま赤ん坊を運び上げ、礼拝堂の十字架の前にて聖水で赤ん坊を洗い上げた。すると、みるみるうちに不気味な焦茶色の毛は赤ん坊の身体の中に仕舞い込まれて、身体の輪郭や顔の形まで変わり、ついには清らかな水の中で、母親似の可愛らしい男の子へと変身した。後から来た医者や修道女たちは、礼拝堂の中で新しい命の産声を聞いた。


「ミカエル様の名前をつけるよう、神父様に言われたのよ。ミカエル様は太陽を司るから、あなたのことを必ず光の下で守ってくださると」


 ミカという名前の由来について母親に尋ねた時、帰ってきた答えはそのようなものだった。母親は年老いた祖母の髪の毛を丁寧に結いながら、ミカの方を見ずにそう答えたのだ。


「ふうん」


 また神父様か、とミカは内心で呆れた。自らも母親から目を逸らし、斜め下の床などを見ながら言う。


「他ん()の人はそんなに神父様の言うことを聞かないよ。せいぜいクリスマスに礼拝堂へ行けばいい方だ」

「そんなことないわ。ここらの田舎じゃまだ教会との繋がりが強いもの」

「そんなことあんだよ。この辺りだって、都会と同じになっていくんだ。もう昔ほど宗教は厳しくないのに」

「ほら、おばあちゃん出来ましたよ。もう動いていいですからね」

「なんで毎週教会に通うの?」


 母は、ミカに信じられないというような目を向けた。


「母さんたちがやることに文句があるの? 宗教が自由なら毎週教会に行ったって自由でしょ!? 毎日でも自由よ!」

「文句じゃねぇよ、何でって訊いて……」

「もういいでしょう、羊は今父さんが見てるのね!? だったらミカは早く支度なさい。もうすぐ迎えが来る時間よ!」

「……」


 ミカは唇をモゾモゾとさせたが、それ以上言い返す言葉を思いつかなかった。というのも、ミカが母親にこんな話を振ったのは、今から来る迎えのために服装を整えるのが嫌だったからなのだ。それなのに、もうすぐだから支度をしろと言われてしまえばもう逃れられないし、話題の選択を間違えたか、母親の気を害したせいで余計に嫌な話を聞いてしまった。


 木製の階段を荒い足取りで登れば、踏み板は軋みながら大きな音を立てる。二階で学校の宿題をしている彼女には、既にミカの到来を予想されているだろう。


 想像通り、ミカの姉・ソフィアはもう勉強机に向かわず、絨毯の上にクッションをたくさん置いて、そのふわふわとした空間の中に凛と座していた。

 ミカが扉を開けて現れると、ソフィアは大きく両腕を広げる。


「ミカ、おいで」

「姉さん」


 ミカは、姉の膝に吸い込まれるようにして倒れ込んだ。太ももの上に乗った弟の頭を、ソフィアは上から包み込むようにして撫でる。


「また喧嘩してたでしょう」

「聞こえてたの?」

「そりゃあね。ねえミカ、あまり母さんたちを不気味がっちゃだめよ。あの人たちにはね、あの人たちなりの想いがあるの」

「……想いって何?」


 首を捻り、ジトリとした目で見上げてくるミカが可笑しくて、ソフィアは笑いながらミカの頬をつついた。


「あのね、わたしが思うに、ミカは生まれてくる時一度死んだのよ。でも、神父さんが何とかしてくれたから、ミカは今こうして生きてるの。母さんたちが教会に通うのは、ミカのことを本当に大切に思って、神父さんに、感謝しているからなのよ」


 ミカは、ソフィアの膝で暖まりながら深く息を吸い込み、やがて長く細く吐き出した。それがまた可笑しいと笑いながら、ソフィアがミカの肩をポンポンと叩く。ソフィアからちゃんと話を聞いたミカが、次へとやる気を出したこと、姉には全てお見通しなのだ。


 数分後、ミカは上衣も下衣も靴まで真っ白な試験着を着て、階下へ降りた。ちょうど、大きくて四角い都会の車が家へ近づいてくるエンジン音が、ミカの耳に聞こえてきたところだった。ミカが「来たみたいだ」と言うと、母親は慌てて自分の髪を櫛で梳かして、汚れたエプロンを脱ぐ。十分弱の後、家の前で停車した車の中から、四人ほどの男が降りてきて、ミカの家の戸を叩いた。

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