第七十六話 ハチミツミルクはおくすり篇
そう言うと、ミカはまるで自分の口から害虫が出てきたかのような顔をした。だが、それでもなお衝動が抑えられないようで、同じ内容を延々とつぶやき続ける。
「どうしよう、俺が、俺がああしてしまって……」
吸血鬼とエリザベスは一度困惑して、しかしすぐに、ミカが何か昔の記憶を思い出したことを悟った。いや、思い出したというよりは、思い出すよう仕向けられたと言うべきだろう。館に来る前の記憶を見せられたのだ、あのウィジャボードの幽霊に。
吸血鬼はミカの背中を軽く叩き、彼に立ち上がるよう促した。
「大丈夫だ、君が過去に何をしていようと。部屋に戻りなさい。」
自室に戻って寝間着に着替えても、ミカの目はすっかり冴えてしまって一切眠れる気がしなかった。頭の中には、嫌な映像が固くこびりついている。ベッドの上で身を悶えさせ、のたうち回るように転がっていると、ついに床に落ちてしまった。ドンと大きな音が鳴ったが、体は少しも痛みを感じない。なおも床で転がり続けていると、トントントンと、ドアが控え目にノックされた。
「ミカ、入るよ」
ドアを開けて現れたのは吸血鬼だった。彼の右手にはトレイがあり、その上には湯気を立てるマグカップが乗っている。
「ハチミツミルクを持ってきたよ」
ミカはドアの隙間から光が差し込んだ瞬間、部屋の奥へと一目散に逃げていた。吸血鬼は首を少し横に振って、そこで三角座りしたミカを見つめる。壁と壁が合わさる角にお尻を挟みこむようにして、限界まで狭苦しい姿勢を取ったミカは、光に照らされることを恐れているようだ。
吸血鬼は視線を落としながら入室し、後ろ手にドアを閉めた。ベッド横の木製テーブルにマグカップを置き、静かに部屋を後にしようとする。だが、マグカップが置かれた音にミカが反応して、
「ハチミツミルク……」
と呟いたのが聞こえた途端、吸血鬼の頬には思わず笑みが差してしまった。食欲があるなら御の字だ。吸血鬼はマグカップを再び取り上げ、すぐさまミカに運んでやる。
「ハチミツミルクだよ。よく眠れるはずだ」
ミカの鼻腔を、濃厚なハチミツの甘い香りが満たした。暖かい湯気がミカの唇と心をくすぐる。真っ白なミルクは傷ついた心を溶解させる薬のようだった。
「いいんですか、俺」
「いいとも。何が心配なんだい?」
「でも俺、人間じゃない」
吸血鬼は驚いて両眉をクイッと上げた。ウィジャボードの幽霊が見せた記憶は、ミカの本当の正体まで彼に明かしてしまうものだったのか。ずっと「ただの人間」だと思っていた自分の体が、全く普通ではなかったのだ。当然、今までのアイデンティティは崩壊するだろうし、意識の根本から前後不覚にされただろう。今は、随分と落ち着いている方だ。いや、先ほどは確かに混乱して暴れていた。あの玄関ホールでの時間があったからこそ、今こうして座っていられるのだ。
「大丈夫だ、ミカ。私だって人間じゃないが、ハチミツミルクは今までにいくらでも飲んでる」
「違うんです。吸血鬼さんは元から吸血鬼なだけだけど、俺は」
ミカは顔を真っ直ぐに上げ、吸血鬼を見返した。
「人を殺したんです」
吸血鬼は慎重にかける言葉を選んだ。私も殺した。エリザベス嬢も殺した。セレーンさんも人を殺していたよ。今言うべきなのは、そんなことではないはずだった。しかし、自責して苦しんでいるミカには、どうにかあまり、思いつめてほしくない。でも、「人殺しの罪についてここでは気にする者などいないから、そんなに深く考えるな」なんて伝えられるはずもなかった。
「ミカ」
絞り出したのは、ただミカの名を呼ぶことだけだった。
「外から帰ってきた後、玄関ホールにウィジャボードの幽霊がいて、頭の中がボヤボヤしたんです。それから、あいつが言ったんです。『どうしてそんなに幸せそうなんだ。お前にその資格があるのか』。暗くて、わけわかんない怖い声で。それを聞きながら、ずっと、昔のことを思い出していました。この館に来る前に、家族と……暮らしていた時のこと。でも同時に、館で大暴れしていた時の記憶もあるんです。さっきの俺は、人間じゃなかった。体の大きさとか全然違うのに、でも自由に動かせたんです。俺は元々人間じゃなかったんです。だけど……」
ミカの瞳に涙の気配はなかった。むしろ、すっかり乾いてしまって、瞬きをするのも痛いようであった。
「元々人間じゃなかったとしても、人を殺してしまったら、きっと、もっと人から遠ざかってしまうんです」
吸血鬼はただ、ミカにマグカップの中身を飲み干すように促した。ミカは、しつこくハチミツミルクを拒んだ。彼の内心はこうだ。「罪深い自分がこうして甘い飲み物で癒されることなど、とんでもない」。しかし、これは彼の意地に過ぎない。ここでハニーミルク一杯を拒んだところで、彼の罪も傷も消えない。
吸血鬼は辛抱強く彼に寄り添い、やがてすっかり冷えたハチミツミルクが、ミカの腹の中に流し込まれた。マグカップが空になった頃、気を失うように眠ったミカの頭が、隣に座る吸血鬼の肩にコトンと落ちた。




