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第七十四話 玄関ホールの乱闘編

 その事態は、図書室の棺桶内でぼんやりと蓋の裏を見つめていた吸血鬼に限らず、その時既に眠っていたエリザベス嬢まで叩き起こした。

 深夜零時をとうに過ぎた頃、明らかに犬科の動物のものである咆哮が館全体に轟いたのだ。更には、何か金属製のものが落下する音、何かが叩き割られる音、はたまたそれらの衝撃そのものが床の振動を通して次々に伝わり、吸血鬼とエリザベスの二人は髪の乱れもそのままに寝床から飛び出した。

 先に現場の玄関ホールへ辿り着いたのは、一階にいた吸血鬼だ。彼が図書室のある廊下と玄関ホールの境を跨いだその時、再びあの犬科の吠え声が鼓膜を叩き破らんと轟き、彼はその正体を前に目を疑った。

 今まさに館を襲っている脅威の正体は、狼に変身したミカだった。その明らかな吠え声から予想はできたものの、まさか、本当にミカが狼になって暴れるなんて、という気持ちが現実を受け入れる邪魔をしていた。その狼がミカだとわかったのは、変身した姿を何度か見たことがあるからだ。しかし、それは鏡に映った像であったり、気を失って無意識に変身してしまった時であったりで、こんなにも危険な状態のミカに対峙したことなどまるで無い。吸血鬼の全身は、確かな恐怖に震えていた。

 床には、ミカが暴れた衝撃で落下してしまったシャンデリアが残骸となって散乱している。焦茶色の毛を硬く逆立てた狼は、二メートルにもおよびそうな巨躯を踏ん張り、赤い絨毯をビリビリに破きながら正面階段に向かって四つ足で突進を続けていた。狼の勢いは留まるところを知らず、平気で階段の三、四段目や手すりを破壊していく。瓦礫を吐き出した狼は素早くホールの中央に戻り、上を見上げて「ガウーーッ!!」と吠えた。

 ここで、階段の上からエリザベスが顔を覗かせた。獰猛に牙を剥く狼を一目見て立ちすくんだ彼女に、吸血鬼は思わず鋭い声で呼びかける。


「こっちに来るな! 戻れ!」


 ハッと吸血鬼を振り返ったエリザベスは、しかしその場から逃げる事なく、逆に一段下へ踏み出してきて言った。


「違いまずわ! ミカは暴れでるんじゃありまぜん!」

「暴れてるんじゃない!?」


 エリザベスは手を大きく振りながら訴え、それに対して吸血鬼が、若干裏返った声で返した。暴れてないとはどういう意味だ? それに、レディ・エリザベスのあのジェスチャーは……?


 二つ目の疑問の答えはすぐにわかった。階段の上のエリザベスに向けて、玄関ホールの端から大声を上げた吸血鬼は、錯乱したミカの注意を引いてしまっていたのである。


 ホールの中央に居たミカは、吸血鬼の方を向いて「ガルルルル……」と唸った。黒い歯茎が見えるまで牙を剥き出しにして、鋭い爪が弧を描いて絨毯を裂く。そして、ついに吸血鬼へ向かって走りだした。


「くッ!」


 舌打ちしかけたのをなんとか堪え、コウモリを呼び出して相手をさせようとした吸血鬼だが、すぐにハッと気づいてどうしようかと考えた。なにせ、彼が深夜まで棺桶の蓋を見つめるだけの簡単なお仕事をしていたのは、彼の使い魔たちを一斉に失ってしまった悲しみに打ちひしがれていたためなのだから。

 咄嗟に半身を翻した吸血鬼の手首を、しかし、ある者が掴んだ。


「何がッ……!?」


 突然、他者の力で体の動きを制限され、吸血鬼の頭の中は混乱に満たされる。誰かの握力を感覚する左手首からは黒い煤煙が立ち昇っていた。通称「ウィジャボードの幽霊」たるものの赤い瞳は怒り任せに吸血鬼を捉えていて、吸血鬼は恐怖よりも純粋な驚きに目を瞠った。


 ウィジャボードの幽霊は、空洞のように見える口を開けて、こう話す。


『なぜお前たちはずっと、ここでのうのうと暮らしている?』

『なぜ笑っている? なぜ幸せの資格があると思う?』


 ウィジャボードの幽霊は、激しくノイズの入った声でそう言って、吸血鬼の手首を握る力を強めた。赤い瞳は鋭く光り、吸血鬼に対して、いやそれというよりも、この館の住人に対して、遠慮のない苛立ちを向けてくる。

 吸血鬼は眉を顰めた。ウィジャボードの幽霊が言った言葉は、まるきり吸血鬼が最も嫌いな類の言葉だった。その言葉を聞いた瞬間、彼の中から混乱も驚きも、怯えの一切もが消え去り、芯から冷え切った胸元から低い呼気を吐き出すような声で一言漏らした。


「は?」


 同時に、吸血鬼は身体を霧に変化させ、幽霊の拘束から逃れることに成功する。その場に取り残された幽霊は、背後から飛びかかってきたミカの両前足に押し倒され、床に叩きつけられた。


「ガウッ! ガウッ! ガウッ! ガウッ!」


 ミカは大きな爪と牙で、取り押さえた幽霊を絶え間なく傷つけ始めた。少し離れたところで変身を解除した吸血鬼は、ミカのその姿を見てやっと、エリザベスが「ミカは暴れているのではない」と言った意味を理解した。ミカは、ただ狼になって暴走していたわけではないのだ。きっかけはわからないが、ウィジャボードの幽霊と懸命に戦っていたのだ。


 ミカの攻撃は凄まじく、明らかに幽霊を再起不能にしようというものだった。気の立った狼に敵味方の判別がつくとは思えず、近づけば攻撃に巻き込まれることは間違いない。吸血鬼とエリザベスは、遠くからミカを見守る以外になす術がなかったが、不安ながらもミカの様子を観察する内、どうやら物事はそう単純ではないようだと察し始めた。


 というのも、よく見ればミカの身体は、細かく震えているのだ。それは武者震いではない。怯えたような震えなのだ。それだけではない。幽霊に噛み付き、肉とも言えぬ身体を噛みちぎる合間に、顔を上げて「アウーーッ!」と吠える時がある。その鳴き声には、どこか懇願するような響きが含まれているのだ。懇願するような、苦しむような、人間の言葉で言うとそう、「やめて!!」。


「ミカ」


 吸血鬼は前に手を伸ばし、小さな声で呼びかけた。自らが発した情けない声を聞いて驚き、自分がこんなことではいけないと、身を奮い立たせて「ミカ!」と叫ぶ。


「ミカ! ミカ!」


 エリザベスが、ネグリジェの裾を持ち上げて階段を降りてきた。吸血鬼の隣に立ち、ミカを目で示しながら焦ったように言う。


「ねえ、ミカは、ミカは優勢ではないんでずわ。最初見だ時は、てっぎり戦っているんだど思いまじだが、あれば恐らく……」

「ああ、ウィジャボードの幽霊がミカに何かしているんだ。ミカは怯えて助けを求めている。混乱してるんだ。ミカ!」


 吸血鬼がいくら呼びかけても、ミカは止まらなかった。攻撃を受け続けた幽霊は、たまらず身体を霧散させてミカの足の下から抜け出す。移動した幽霊を追いかけて、ミカはまたホールの中央に戻り、上を見上げて牙を剥いた。

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