第七十三話 本当の目的篇
その夜、ミカは茨の森を出口に向かって突き進んでいた。なぜそうなったのか不明だが、昨日から茨の枝は益々密度を増しており、以前の様に木と木の間をすばやく駆け抜けるということはできない。だが、ふと茨の木に登ってみたところで、ミカは自分の体が、その枝ぶりの全てを知っているかのように動いていると気づいた。木の枝を伝って次の木に飛び移り、再び森の中を進んでいくが、やはり、目視で枝ぶりを確認するまでもなく、体が自然と慣れた動きをとっている。吸血鬼やエリザベスが言うには、ミカは記憶を失くす以前、よく茨の森の中を走っていたらしい。それで培った走り方の技術は、今のミカには記憶として残っていないが、全身の筋肉は全ての経験を覚えていたようだ。ミカはスイスイと茨の中を進み、やがて一時間もした後、結局出口には辿り着けず帰路についた。
茨の枝ぶりが同じだということは、森は形を変えたのではなく、館に向かって木と木の間を縮小させたのだろう。これ以上森が小さくなれば、ミカであっても森の中に入ることは難しくなる。ましてや森を潜り抜けて脱出するなど、言うまでもない。
そもそも、なぜミカがこの深夜に森へ入ったのかといえば、「森が館の住人を閉じ込めようとしている」という吸血鬼の説が、本当に正しいのかを確かめるためだったのだ。
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波乱のあった夕食は、結局吸血鬼の手によって作り直され、薄切り肉のステーキとコールスロー、柔らかいパンという理想的な食事となって終えられた。食後、ミカとエリザベスは、せめて片付けくらいは自分たちにやらせてくださいと悔しさを胸に吸血鬼へ頼み込み、吸血鬼が背後から見守る中、キッチンに立って皿洗いを進めることとなった。
あくせくと働く二人を前に、吸血鬼は厨房の入り口で腕組みをして壁にもたれかかり、手持ち無沙汰げに話し始めた。しかし、その内容は、館の住人である限り片手間に聞いて良いものではなかった。
「コウモリたちがいなくなってしまったからには、もう茨の森の外から物資を集めてくることはできない」
ミカは皿を洗う手を止め、ポカンとした表情で吸血鬼を振り返る。
「物資って、今日の食べ物とか?」
「まずはそうだね、でもそれだけじゃない。君が今使っている洗剤もいつかはなくなるし、トイレットペーパーだってそのうち切らす。冷蔵庫や電子レンジに、洗濯機だって、今すぐにではないだろうが、もし壊れた時には買い替えることもできない」
「外から運んできていたものって、そんなに?」
「ああ。生活にはいくらか継続的に入手すべき物資があって、それらは全てコウモリたちが運んできてくれていた。私たちのライフラインは、今日この日を境に途切れたと言っていい」
「そんな!」
ミカは思わず食器用スポンジをギュッと握って、結果手の中でブクブクと泡立った洗剤を見て青い顔をした。この綺麗な泡一つ一つが貴重な物資だ。ちょっと使いすぎた気がする。
吸血鬼に脅かされていると思ったエリザベスは、和やかな様子でミカを背中をトントンと叩いた。
「心配せずとも大丈夫でずわ。わだぐじの生きた時代には、冷蔵庫もトイレットペーパーもございまぜんでじだもの」
「だが、レディ。君はその時代、自分の力で物資を調達する生活をしたことはなかったろう。だからこそ、今は私が君たちの分まで家事をしているんだ。その私だって、慣れ親しんだ電化製品がなければ生活に悩む。今やこの中の誰も、健康で文化的な生活を保障された状況にない」
それを聞いて、エリザベスもまた表情から明るさを消して、ミカと顔を見合わせた。不安げに揺れる二人の瞳は、そっくりだ。そして、表情はうまく取り繕っているけれど、吸血鬼だってミカたちと同じ心境なのである。
吸血鬼は珍しく耳の裏を掻くような仕草をして、諦念と共に首を横に張った。
「ひとまず、今あるものを大切に使いながら、対策を考えていくしかないね」
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「森が俺らを閉じ込めようとしてるって、今更、何言ってるんすか。ずっとそうだったじゃないっすか! 俺らがいくら頑張っても、森は出口を隠してる! セレーンさんは出られたけど、それはなんでかわかんない……! 全然、戻ってもこない……!」
そうだ、「森が自分たちを閉じ込めようとしている」という見解に、ミカは納得がいっていなかった。確かに、館へ近づいてきた森には圧迫感があって、そこにいるだけで閉じ込められたと感じる。唯一森を自由自在に抜けることができたコウモリたちが全滅してしまったとあらば、「誰もこの森から出さない」という誰かの意志を感じてしまっても仕方がない。でも、なんだか、うまく納得がいかないのだ。吸血鬼が言うように、「このままいけば生活できなくなるし、餓死するよ」というほどのピンチな状況を、素直に受け入れられないのである。
居ても立っても居られず、こうして夜中に森を走ってしまった。時刻は、今まさに日付が変わろうという頃だ。
やっとのことで森を抜け、館の前に戻って来たミカは、玄関を入る前に館を見上げて唖然とした。
茨の枝が、館の外壁に突き刺さっている。まさか、そんなに簡単に貫かれるはずのないレンガ壁が、無数の植物の枝に穴をあけられてボロボロになっている。
日付が変わり、茨の森が更に館へ近づいたのだ。近づきすぎて、壁を突き抜けてしまったのだ。
棘だらけの沢山の枝が、古い洋館の壁を貫く図は非常に禍々しかった。衝撃的な光景を前に、ふいにミカの中である発想が生まれた。
「そっか。お前、俺らを殺そうとしているんだ」
ミカは敵意と共に「お前」と言ったが、それは反射で出た言葉だ。その口を突いて出た言葉を聞いて初めて、「自分たちには『お前』と呼ぶべき敵がいる」という事実を自覚したのだ。
お前というのが誰なのか、考えたくもなかったが、心当たりが一人だけいた。そういえば、コウモリたちだって急に寿命が尽きたわけではない。何者かに殺されたのだ。こんなにわかりやすい始まりだったのに、誰もこの状況の、本当の意味に触れなかった。いや、あの吸血鬼のことだ、わかっていながら敢えて、「森が私たちを閉じ込めようとしている」などと表現したのかもしれない。閉じ込められて物資がなくなれば、最終的には同じ「死」という結末に追いやられるだろうと思って? でも実際には、そんなに悠長にしている時間はないのかもしれなかった。
「吸血鬼さん! 姉さん!」
ミカは館に走り入り、玄関ホールから大声で彼らを呼んだ。エリザベスはもう寝ているかもしれない。だが、吸血鬼なら起きているはずだ。自室か、図書室のどちらかで、本を読んでいるはずだった。
けれど、実際にミカの目の前に現れたのは、その二人のどちらでもなかった。
黒い人影が、玄関ホールの両階段の中心で、ミカを見下ろしている。
ひゅっと、ミカの喉が恐怖に音を鳴らした。
(やっぱりだ。ウィジャボードの幽霊だ……! こいつが全部の元凶で、コウモリたちを殺したのもこいつなんだ。次は、俺らを狙ってる? 突然なんでだ、俺は何も悪い事してない、何を急に、閉じこめるだけじゃだめになったって言うんだ!?)
煤被ったような人影は、未だ嘲笑うようにそこに立っている。
その人影を睨みつけていると、何やらミカの肌が泡立ち始めた。手足が筋肉痛のような疼きを覚え始め、それが薄まるごとに、ムクムクと身体が大きくなるような感覚がして、視界の広さ、高さまで変わり始める。
壁の蝋燭によって床に照らし出されたミカの影は、やがてウィジャボードの幽霊など目でもないほどに恐ろしく膨らんだ。全身を多く毛が警戒心とともに逆立ち、靡く。
そんなミカを見て、ウィジャボードの幽霊が黒い暗洞のような口を横に開き、正義感に我を忘れた狂人のように、ニタリと笑った。




