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第七十話 愛するコウモリたち篇

 ウィリアムか。

 吸血鬼は内心でそう呟いた。その名前は吸血鬼の心を紛れもなく揺さぶったが、同時に彼は、その名にいちいち反応しても心の余裕を無駄に削るだけであるとわかっていた。ウィリアムはよくある名前であるし、エリザベスの父親の名前と、吸血鬼が初めて殺した人間の名前が一致していることとの間には、何の因果も縁もないだろうと思われた。

 エリザベスの日記を畳むと、吸血鬼は他の三冊と合わせて図書室に持っていき、そこにある金庫で厳重に保管することにした。金庫の中には薄っぺらい紙が一枚あって、その紙と日記を入れ替えて扉を閉じる。

 さて、古びた羊皮紙にはか細いインクで二行ほど、こう書かれていた。


『アドラー領主夫人 エリザベスの伝記をここに禁書とす。 その熱りが冷めるまで』


 吸血鬼は訝しんで眉を上げた。金庫の中にはそれらしき本など無かったが、ここに封印されていたはずのエリザベスの伝記とは、一体どこにあるのだろうか。図書室の中で目線を彷徨わせながらも、吸血鬼の頭の中では既に、ある結論が出されていた。

 というのも、エリザベスの伝記とは、ずばり先に読んだ日記のことだったのではないだろうか。この館は、元々エリザベスに用意された贖罪の場であって、牢獄であって、墓である。館の存在意義は時を経るごとにエリザベスだけでなくその他の罪深い怪物にまで適用されるようになり、エリザベスのため作られた伝記のようなものについても、彼女の分と同様に、館に来た人数分作られた。

 その本がいつ金庫から取り出され、なぜ大広間の祭壇に置かれていたのかはわからないが。吸血鬼はサロンに戻りながら、腕を振ってコウモリを一匹呼び出した。


「この紙を私の部屋へ」


 サロンへ続くドアを開けると同時に、紙を受け取ったコウモリは広い空間へ飛び出していき、目的地へまっしぐらに向かっていった。

 扉を開ける音に反応して、ミカと、続いてエリザベスがこちらを振り向く。二人はテーブルを挟んで顔を突き合わせ、何か熱心に議論している様子だった。


「何してるの? たくさん読んで疲れたでしょう」

「日記の記憶が新しいうちに、大食堂の天井画について話しておこうと言われて」

「レディ?」

「え゛え」


 テーブルの上には一枚紙が置かれていて、大食堂の天井画が簡易に再現されていた。エリザベスはその小さな天井画の中にいる、黒っぽい人影を指さして言う。


「ごの人物のごどでずの」

「こいつ、ウィジャボードの幽霊じゃない? ジャクソンさん」


 吸血鬼は肩をわずかにびくりとさせてミカを見た。勢い余って視線が鋭くなってしまったか、ミカがこちらを見上げたまま肩をすくめる。

 吸血鬼は、一度噛み締めた唇から牙を離して、用心深く確認するように、その呼称を繰り返した。


「ジャクソンさん?」

「いや、すいません、嫌なら呼ばないっすよ。せっかく名前がわかったし、呼んでみたかっただけっすから」

「……いや、いいよ。ミカの好きに呼んでくれたらいい。少し驚いただけだから。私は夕飯の用意にかかる。君たちも一旦切り替えて、ちゃんと休んでおきなさい」

「了解っすよ。心配性だな」


 顔を見合わせるミカとエリザベスを置いて、吸血鬼は厨房に向かった。去り際、エリザベスがミカと目を合わせながら首を横に張っている姿が見えたが、何を話しているのかは知る由もなかった。

 キッチンの作業台にはいつもの通り、吸血鬼の可愛いコウモリたちが館の外から調達してきた食材が並べられている。厨房の中央に置かれた木製の台に、本日のラインナップは目を見張るほど豊富であった。


「おお、これは……!」


 まずはエリザベス御用達の生肉だが、既にある程度加工され、ステーキ用、炒め用と其々にパッキングされている。そして、ウインナーなど加工肉から、卵、牛乳と、タンパク質には当分困らない品揃え。野菜類は、この館の住人たちにはあまり人気がないが、それでも豊富に取り揃えてある。炭水化物は、トースト用の食パンが二斤と、クロワッサンをはじめとしたバリエーション豊かな小麦粉の成れの果て。パン屋さんに行ったのだろうか。いいや、スーパーだ。これはスーパーに行ったに違いない。塩胡椒砂糖、バジルにシナモン、コリアンダーまで揃っている。色とりどりの調味料のパッケージを確認して、吸血鬼は確信と共にこう言った。


「ロンドンだ。私のロンドンに帰ってきている」


 極夜の館に閉じ込められてもう幾年、館が時間も空間も超えて少しずつ移動していることには気づいていた。偶にこうやって二十一世紀に戻ってくることもあり、その時にはいつも、館に足りない物資を食材から日用雑貨、インテリアに至るまでコウモリたちに用意させてきた。だって吸血鬼はモノ溢れる時代に育った現代っ子だから。


「これはいいタイミングだ、恵まれてる。明日は新しい鍋敷きとミトンを買いに行ってもらって、そうだ電動ブレンダーも用意してもらおう。あと、ミカの服と、全員分の下着とタオル、ああ、その前に今日のコウモリたちを褒めてやらないとね!」


 生まれ故郷の豊富な食材を前に心を弾ませた吸血鬼は、使い魔を呼び出すために両手を軽快なリズムで叩いた。


「出ておいで私の妖精たち! 今日はパーティーだ、餌も沢山あるぞ!」


 しかし、ニコニコ笑顔で周囲を見渡しても、彼のコウモリたちが出てくる気配はない。

 目をキョロキョロさせながら吸血鬼は、再びパンパンと手を叩いた。


「どうした、コウモリたち! おいで、ご褒美だぞ?」

「グワァァァァァァァ!!!」


 その時、凄まじい獣の吠え声が轟いた。吸血鬼は両手を中途半端に開いた体勢で、警戒と混乱のため首を左右に振る。その咆哮はおそらく二階から聞こえてきた。まもなくして、階段を慌ただしく降りる二人分の足音が響き出して、合間合間に「きゃーーーー!」「わああーーー!!」と動揺しきった悲鳴が聞こえた。

 

 慌てて厨房の外に出ると、ミカとエリザベスがこっちに向かって走ってくるのに出会した。ミカは両腕を前に突き出し、手の中に何かを包んでいるようである。そこに何が入っているのか、廊下の惨状を見てしまった今なら、想像に難くなかった。


「吸血鬼さん! 吸血鬼さん! これ!」

「この子、でしょう」


 ここまで走ってきたミカが、吸血鬼の眼前に手の中のものを突きつける。ミカの両手に包まれていたのは、吸血鬼のコウモリのうち、一匹の死骸だった。


「どういうことなんだ……」

「わかんないっす! 急に上から落ちてきて!」

「そこに置いて、手を洗ってきなさい、ミカ」

「でも!」

「もう助からない。この子達は、みんな揃って、私の手で埋めてやるから」


 吸血鬼は、シュンとなったミカの頭をポンポンと撫でた。本当は、自分の頭だって誰かに撫でて欲しいくらいだった。愛するコウモリたちが、館の至る所で死んでいる。


 吸血鬼のコウモリたちは、皆一様に死んでいた。彼らの死骸は廊下の隅にバタバタと落下しており、玄関ホールに出てみると、広い床の上には黒く小さな水玉模様のように散らばっている。それらは全て紛れもなく死骸であり、全て、吸血鬼の使い魔たちだった。吸血鬼と苦楽を共にしてきた、吸血鬼の可愛い妖精たちだった。


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