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第六十九話 人魚のいる店篇

  ロンドンの学生街に程近いショッピング街には、五十年前の不気味な事件からこちら、新しく開業する店と撤退する店との攻防が前者の負け越し気味に続き、人口過多で渋滞の多いこの街には珍しく、常に人通りの少ないストリートがゆるりと通っていた。

 五十年前の事件というのは、大抵の人間には忘れ去られているが、それがあまりにも強烈だったために、当時、恐怖に苛まれた老人たちが時折、テナント経営者や客へあることないことを吹聴していくので、やはりと言っては何だがこの通りは相変わらずの陰を纏っているのである。

 そんな、ただ厄介なだけの老人たちは、事件について度々尾ひれを付けて話した。なぜなら、彼ら自身は事件の直接の被害者ではないからだ。事件について最も説得力があって真に迫った説明ができる老人が一人だけいたのだが、しかし先月、ついに彼もこの世を去ってしまった。

 紳士服の仕立屋ウィリアムの息子・チャーリーは、父親が長年経営していた店の、向かいのビルの1階を借りて、小さなパン屋を開いていた。クロワッサンの絵が描かれたオレンジ色のテントは、この通りの中にあると妙に明るく、いつまでも真新しく見える。商売には不利な立地だが、ありがたいことに常々客足が絶えないのは味のおかげか、もしかすると、最近雇った美人のおかげかもしれなかった。


「食パンが一斤と、クロワッサン、スコーンが一、二、三……全部で――」


 オレンジ色のエプロンをつけて元気に勘定している、あの赤髪の女性はセレーンと名乗った。セレーンがこの店で働き始めてから、もうすぐ一か月になる。常識という面で少しおぼつかない所もある女性だったが、仕事を覚えるのは早く、その天真爛漫さが客にも好かれるようだった。


「ありがとうございます! また来てくださいね!」

「セレーンさん、もうすぐ昼を過ぎるから、ここらで休憩にしよう」

「はあい、店長」


 このパン屋の商品は、昼を過ぎたあたりで一度棚からすっかり消える。店の窓際にある小さなイートインスペースは、再び商品が並び始める夕方まで埋まることがない。店長と店員は、客のために用意されたそのテーブルを一時的に借りて、一緒に昼食をとることにした。


「今日は新作のパンを試してみたんだよ。ナッツと一緒にチョコとラズベリーが入ってる」

「あの小さいケーキと同じ味付けね。わたし、甘いパンは好きだよ。固くて可愛くないのばっかりじゃ飽きちゃうわ」

「え? パン屋なのに」


セレーンは店で雇ったアルバイトのようなものだが、その出会いからすると、「雇った」というより「引き取った」という方がチャーリーの感覚的には正しかった。チャーリーの父が急死した三日後のこと、青い顔をして仕立屋のショーウィンドウから中を覗きこんでいたのが、彼女だったのだ。


 その日、ロンドンには珍しくない雨が降っていた。セレーンの赤髪は随分濡れそぼっていて、ここまで傘を差さずに歩いてきたらしいとわかった。少しの雨なら傘を差さなくとも頷けるが、その日の降り具合なら、傘は必須のはずだった。おまけに、彼女が中を覗いているのは紳士服店であって、若い女性に用があるとは思えない。雨に打たれた後ろ姿はただでさえ寂しげであるのに、何か訳ありなことまで明らかとなれば、放っておくわけにはいかなかった。

 チャーリーは仕立屋の鍵を持って彼女に近づいた。時間は丁度昼過ぎで、客足は途切れていた。


「そこの店主なら、三日前に亡くなったんですよ。中に用があるなら、鍵を開けましょうか?」


 細い肩がびくりと揺れ、首がゆっくりとこちらに向いた。顔からは血の気が引いて青白く、鮮やかな赤毛とのコントラストが映えていて、不謹慎かと思いながらも美しいと思った。


「すみません、遺品の整理で鍵を預かっていて……僕は」

「ウィリアムの息子のパン屋さんね?」


 言い当てられたことに少しびっくりしたチャーリーは、自分がパン屋のエプロンを着ていることに思い当って一度納得した後、すぐにまた首を傾げた。ウィリアムの様子が心配でここに店を構えたのは、チャーリーの勝手だ。父と息子という関係については、ウィリアムが嫌がるのであまり言いふらしていない。

 不審がるチャーリーに対し、セレーンはごく小さな声で弁明した。


「ウィリアムと仲が良かったのよ。本当よ」


 父の店を開けてやると、セレーンは棚の隙間や椅子の後ろなど、あちこちを探し回ってから、ショーウィンドウを指さしてチャーリーを振り返った。


「あそこにあったタキシードを知らない? あっ……」


 セレーンが詰まった声を上げたのは、チャーリーがタオルを投げ渡したからだ。


「先に拭いたらどうですか? 風邪ひきますよ」


 セレーンは名残惜しげにショーウィンドウを一瞥したあと、しぶしぶという様子で真っ白なタオルに顔を埋めた。フワフワの床に、赤い動物が突っ伏しているように見える。


「そうだった。人間の体は冷やしちゃいけないんだった」


 それからしばらくして、少しばかり落ち着いた様子のセレーンから話を聞くことにした。店から試作のパンを持ってきて、薄暗い天井ランプをつけ、小さな丸机に丸椅子を二つ持ってきて座った。


「セレーンさんがどうしてそんなに気に病む必要があるんです? いえ、有難いんですけれど、息子としては。でも不思議で。貴女は父と、一日ばかり話しただけなんでしょう?」

「でも、ウィリアムが死んだのはきっと、わたしのせいでもあるのよ」


 セレーンは机に敷いたタオルに顔の片側をくっつけたまま、鬱屈とした仕草でパンを頬張っていた。


「……関係がない。彼は急性の心臓発作で」

「そこにあったタキシードが似合う人を、わたしがここに、連れてきてしまったの」


 チャーリーは、いつの間にか空っぽになっていたショーウィンドウに目を遣った。あそこにあったタキシードの事情はチャーリーも聞いていて、けれど、年老いた父親の妄言が混じっていると思っていた。もっとも、妄言のわりには、あまりにもあれを大事にし過ぎているとも感じていた。

 父があのタキシードを誰かに売るはずがないとはわかっていたため、遺品整理中にそれが見つからなかったことが不思議だった。できれば、父と一緒に埋葬してやりたいと思っていたくらいなのだ。父が亡くなった隙に盗まれたのではとさえ思った。

 セレーンは再びショーウィンドウの元に立った。そこへ吸い寄せられるように移動した彼女の様子を見れば、とにかくセレーンがウィリアムの死について心底から責任を感じているようだとわかった。


「貴女が言っていること、全てはわかりませんが。でも、父は長年、そのタキシードが似合う人を探し続けていました。彼が亡くなる前に探し人に出会えたことは喜ばしいことだと思うし、僕も、それを聞けて嬉しい」


 セレーンは髪を振り乱してチャーリーを振り返った。その唇は何か言いたそうに半分開いていたが、やがて目を伏せたあと、彼女はおそらく、言いたかったこととは別のことを口にした。


「もっと、教えてもらいたかったな……」


 そのつぶやきで、チャーリーはようやく合点がいった。きっと彼女は服飾関係の学生で、服の仕立てについて父に教わる予定であったのだ。チャーリーも幼い頃に服の仕立てを齧ったことはあるが、今はもう、少しばかりも覚えていない。

 気の毒な学生のため少しでも力になれることはないかと思って、チャーリーは躊躇いながら申し出た。


「えっと、もしなんだったら、この店にあるものは自由に使っていいですよ。僕はもう使いませんし、跡を継ぐものはいませんから」


 セレーンは目を丸くして答えた。


「いいの? ありがとう。ちょうど住むところがなかったの!」


 住み込みで修行する予定だったのだろうか。チャーリーは、彼女を余計に気の毒に思った。


 それから、お金がないという彼女を店で働かせて数日、どうやら彼女は学生ではないと知って数週間、お金を貯めて故郷に帰りたいという彼女にそのまま家と職場を提供し続け、一ヶ月が経った。


 パン屋の昼休憩、新作のパンを笑顔で試食するセレーンは、よく昔の友達について教えてくれる。


「店長、だからね、人間っていうのは見た目じゃないんだよ。ゾンビちゃんは腕とか取れたけどちゃんと人間だったし、逆に心が伴ってないなら、人の形をしてても人間じゃないんだから」

「心が伴ってないって?」

「サメはサメを襲わないでしょ、それは自分も相手もサメだからなの。心が人間じゃないとね、島を焼いたりする」


 セレーンはそう言い、少し顔を曇らせて窓の外を見た。窓の外には、薄い曇り空から差し込む心地よい日光で照らされた、ロンドンの街が広がっている。セレーンが本当に見たかったのは、故郷のエーゲ海の景色だったのだろう。薄い白色の光を受けたセレーンは、出会った時よりも健康的で、一度笑顔になれば、それはもうずっと美しい。


 最近のチャーリーは思う。もしセレーンが故郷に帰る日が来れば、一日だけでもいいから、一緒について行ってもいいだろうかと。

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