第六十八話 物語の始まり篇
まず彼らは、大食堂にエリザベスを放置したまま一日中大広間に引きこもった。彼らはそこで何かを設置していたようだったが、エリザベスがその様子を見に行くことはなく、偶に扉越しに聞こえる足音から作業の進捗状況を推し量るなどしていた。
それから、今度は大食堂での作業に取り掛かったエリザベス討伐隊だったが、その作業というのがかなりの時間を要して、二十人で仕事に当たっておきながら完成までに丸二日かかった。というのも、彼らが大食堂に施したのは、天井画の作り替えなのである。
元々、アドラー家の離れの大食堂には、流行と伝統をおさえた画家による天井画が描かれていて、その絵が表すのはよく知った聖書の一節だった。しかし、彼らはその美しい天井画に向けて梯子を伸ばすや否や、遠慮なく全体を塗りつぶした。真っ白のキャンバスに戻るまで色を重ねると、次に彼らは、梁のような木材を天井へ十字に渡らせた。そうして四つの区画に割った天井へ、それぞれ別々の絵を描き始めたのである。
天井画の作業が行われている間、大食堂のダイニングテーブルや椅子は部屋の外に出されていた。当然、椅子に座るエリザベスも外に出なければならなかったが、その時「エリザベス討伐隊」のうち若い二人ほどが、エリザベスの鼻先に血の入った袋をぶら下げた。その袋は長い棒の先に括られていて、エリザベスを言葉の通じない獣のように思ってか、血の匂いで外まで誘導するつもりらしかった。
その二人の思惑に乗ってやっても良かった。しかし、いかんせん余りにも屈辱的に思えた。エリザベスの腹の中から、今の自分が「醜い」と気付いた時のように、暴れ出したいような衝動が再び湧いてきた。悍ましい咆哮を上げようかとした時、討伐隊の二人を止めたのはリアムだった。
「そんなことしなくていい。これは自分の意志で歩く」
大食堂の外に出てみると、驚いたことに館のあちこちの意匠が変更されていた。廊下に置いた蝋燭立て、柱の彫刻、調度品、全てが悪魔をモチーフにしたものに取り替えられており、なんとも悪魔趣味的な内装となってしまっているのだ。この離れを使っていたのは主にエリザベスの母だったが、ここにはもう、敬虔な神の信徒だった母親の面影はなかった。……いや、晩年の彼女を思えば、よりそれらしくなったというべきなのかもしれなかった。
廊下に出された椅子に大人しく座っていると、別室での作業を終えたフレベリンがそこへ通りかかった。彼はエリザベスの姿を見ると、険しくも綺麗に整えていた表情を崩し、おろおろと視線を彷徨わせた。
フレベリンはエリザベスに近づいてきた。エリザベスは彼に、何の反応も示さなかったため、フレベリンが、エリザベスへ一方的に語りかける様になった。
「私を恨みますか、エリザベスお嬢様。貴女をこの道に引き摺り込んだ身でありながら、大義を笠に着て貴女の館に勝手を施す私を許せませんか。許せとは言いません。自分の行動がおかしいことくらい、私が一番よくわかっている。……貴女にその意志があるなら、ぜひ私を恨んでいただきたい。ただ、貴女は、私が想定したより人を殺しすぎた。私にできることは、貴女を人道から外れさせた者として、責任をとることしかないのです」
さて、「エリザベス討伐隊」が来て四日から五日が経つ頃、大食堂に戻されたテーブルと椅子と共に室内に入室したエリザベスは、一新された天井画を見上げて内心で困惑した。その天井画の出来は素人が書いた落書きのように見え、描かれた四画はどうやら連続して一つの物語を表すようだったが、それが既存の物語のうち何に当たるのか、貴族として十分な教養を身につけるエリザベスにも見当がつかなかった。
ダイニングテーブルの上座に座って天井画を見上げるエリザベスに、ウィリアムが近づいてその場に膝をついた。彼は子供と視線を合わせるような姿勢でエリザベスを見上げながら、彼女の手を自らの震える手で取った。
「エリザベス……。この絵は優秀な悪魔信仰研究会の皆さんが考えて下さったものだ。エリザベスの今後を憂いて、心のヒントとして作ったものだ。エリザベスがこの天井画の意味を知る時、お前の心は必ず救われる」
エリザベス討伐隊がこの館で実験しに来た儀式というのは、こうだ。まず、大広間を儀式の核として、そこに悪魔を祀る祭壇を建てる。祭壇の前に司祭の役割を担う者を残したまま、残る者は館の廊下を順繰りに巡って、祝詞を唱える。
『サタンよ、我々を嗤い給え。サタンよ、我々で愉しみ給え。願わくば怪物が人と成るまで』
ウィリアム、それからフレベリンの考えはこうだった。
エリザベスは既に人道を外れ、神に祈っても救っていただける人間ではなくなってしまった。それはウィリアムやフレベリンとて同じことで、最早エリザベスのために神に祈れる立場の者はいなくなってしまっている。
それでも、怪物と成り果ててしまったエリザベスの心を癒したく、出来ることなら人間に戻してやりたい。ならば、神ではなく悪魔に祈ろうと。悪魔が道楽のためにエリザベスの物語を進め、終わらせてくれることを祈ろうと。
司祭を役割を買って出たのはリアムだった。彼は、自ら進んでエリザベスのために、祭壇の前で代表して祈ることを決めた。
儀式が終わると、離れの外に植っていた茨の木々が急激に伸び始めた。「エリザベス討伐隊」の皆は儀式の成功を悟り、茨の木々に閉じ込められまいと一斉に館を飛び出した。やがて、茨はエリザベスを封印するように館全体を覆い、一筋の日光さえも侵入を許さない、決して朝の来ない館を、そこへ作り上げた。




