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極夜の館―怪物(まよいご)たちのほのぼの日常日記―  作者: 畔奈りき
記録:不死の美貌・エリザベス
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第六十六話 怪物篇

 アドラー領には、領主一家が住む山の麓から斜面に渡って造られた街がある。その街の住人である初老の紳士が、卵売りの旦那と何やら噂話をしている。


「領主夫人は後戻りできないところまで進んでしまったな」


 紳士は背後の煉瓦壁にもたれ、パイプで煙草を蒸かせながら言う。

 卵屋の屋台は紳士の左隣に出ていて、店主は売り切った空の籠を眺めながら、同様に煙草を呑んでいる。


「あの女は若い頃からイカレてたよ」

「どうだったか。私が若い時に見た、うんと幼い頃の彼女は、笑顔の可愛い普通のお嬢様だったが」

「そんな小さい時の話されてもなあ。意味がない。人は成長してからが問題だろ」

「厳しいことを言いますな。私は、幼い頃の様子こそが、その人の本質だと思うが」

「じゃあお前、これから先、領主夫人が『可愛い笑顔』を浮かべることがあると言うんかい」

「いや……」


 紳士と卵屋は顔を見合わせ、領主夫人、エリザベス・アドラーの顔を思い浮かべる。

 卵屋は屋台の商品台の上を片付け始めた。


「領主夫人は笑うどころか、もうまともに喋ることもせんそうだ。顔の皮に皺が寄るからと」

「口元を動かせないのだな」

「瞼も動かさんと」

「いよいよ……」


 紳士はそこで、一度口を噤む。


「いよいよ、何だ?」

「いよいよ……じみてきたなと」

「怪物じみてきたって?」


 紳士は卵屋の皮肉っぽい目元を見て、首を横に振った。


「卵屋の旦那、あなたはいつ街を出るんだ?」

「明日の真っ昼間か、明後日の真っ昼間か、正確な日付は言わんが、とにかく真っ昼間だ。嫁と娘を外に出さんといかんからな、人目があるうちに街を出る」

「あなたが出て行けば、毎朝の朝食が寂しくなる」

「旦那は出ていかないのかい?」

「私は難しい。ここに仕事があり、財産がある。だが、娘たちは既に、他領にある妻の実家へ避難させた……こんなところには住めない。この街は、もう人の住むところではない」


 アドラー家の街には、女性はもうたった一人もいなくなっていた。さらには、男性や老人もまた、徐々に街を移動し始め、建物のほとんどが廃墟と化すのも時間の問題であった。往来を行く人間は幾ほどもいない、寂れた街の中を、初老の紳士は一人、誰も待たない家へ帰っていく。


§


 このところのエリザベスの生活を振り返れば、まさかそれが、一定の土地を治める領主のものだとは思えない。彼女が領民を顧みることはなくなって、世話するものと言えば自分の見た目ばかりだ。それでも大して問題ではない。そもそも、領民の数が残り少ないのであるから。

 エリザベスは、齢五十を迎えようとしていた。アドラー家の大きな屋敷には、もう彼女以外、誰もいない。食事も、掃除も、洗濯も、生きるために必要なことは全て自分でしなければならなかった。それが現実ではあるのだが、エリザベスが実際に自分で食事を作ったり掃除をしたりと、真面目な生活を送っていたかと言えば、そんなことはない。エリザベスは、自分が最後に食事をしたのがいつであったか、常に答えられなかった。

 食事もまともにとっていないような状態で、どうして自分が生きて居られるのか、エリザベスにもわからなかった。ただ、心のどこか片隅で当たりを付けられるとすれば、それは、「自分がもはや人間ではないから」という理由である。

 エリザベスの体には、他人の皮膚が無数に貼り付けられていた。人だけではない、動物の皮膚だって貼り付けていた。動物の皮膚を加工して、人間の肌に似せて使っているのだ。剥がれ落ちては貼りなおすことを繰り返す、この美容手術には、人間の肌だけではどうしても数が足りなかったのだ。伸縮性の失われた、死んだ肌たちに全身を覆われ、エリザベスの体は不自然に凝り固まっていた。

 それから、エリザベスが殺してきた人間は、とうに数え上げることもできないほどになっていた。殺した人間から肌をむしりとるだけでなく、生き血を啜る吸血鬼よりも残酷に、自らの血肉にもならない形で、血を集めて浴びるのだ。

 自らの生態を振り返ってみれば、自分のことを「人間」と呼ぶことは、エリザベスにとっても難しかった。正しくは、なんと呼ぶのだろうか。その正解を導き出すことも、エリザベスには、とてもじゃないができなかった。

 彼女は、広々とした大食堂にたった一人で着席して、空のテーブルを眺めるでもなく見て、じっと考えていた。どうしてこんなことになったのか。どうして、自分の体はこんなにも醜いものになったのか。

 そうだ、自分は、美しくなりたかったはずなのだ。その動機だけははっきりとしている。なのに、今のこの体はどうだ? 到底、美しいと言えたものではない。そんな事実、認めたくはないが、どうしたってこの体は、「醜い」としか表しようがないではないか。

 醜い。私の体は醜い。


「あああ、ああああああああ!!」


 エリザベスの口から、獰猛な野獣の咆哮のような叫びが吐き出された。これは、エリザベスの体に貼り付いている動物のどれかの怨念が発したものだろうか。違う。口を大きく開けられないため、喉の奥から舌を介さず滑り出た、声にならない女の苦しみだ。


「あああ、ああああああああ!!」


 エリザベスはもはや、正体を失っていた。大人しく椅子に座っていられるのは、体が満足に動かないおかげだ。もし、エリザベスの体が自由に行動できるようであれば、この大食堂もぐじゃぐじゃに壊されていたことだろう。


 さて、こんなエリザベスのことを、「人間」ではなく、正しくは、なんと呼ぶのだろうかと。その正解を叩きつけてくれる存在が、この日、エリザベスの前に現れる。その人物たちは今、エリザベスが住むアドラー家の離れの前で、彼女の叫びを聞いていた。


「おお、これが、この声が私のエリザベスなのか。本当に、もう普通の方法では助からないのだな」

「そうです、アドラー前領主。彼女はもう、人間としては生きられない。我々の手で、別の神の御許にて、救ってやらねばなりません」

「……別の神などいません、フレベリン医師。神はこの世に一人だけ。いるのは、神の元に集えない者たちに対し、神と同様の救いを与えてくれる、神のように強大な悪魔だけですよ」


 その集団の数は二十人ほどに見えた。その先頭に、エリザベスの父、ウィリアムと、エリザベスの体をこのようにした張本人、フレベリン医師。それから、エリザベスの一人息子、リアムの姿があった。

 ウィリアムの顔には、亡き妻に向けていたものと同様、彼女を心から憐れみながらも愛するという、穏やかな表情が浮かんでいた。周囲の者は皆、ウィリアムが娘に向ける純真な愛を目の当たりにして、心を打たれて涙を流す。

 しかし、リアムの方はといえば、その表情は厳しく憎しみに憑りつかれているように見えた。エリザベスの声が聞こえてきた方を睨みつけ、口元を歪め、両の拳を腰の横で握りしめている。

 リアムが放った、腹底からどうしようもなく湧き出てくる不可逆な声は、二十人の「エリザベス討伐隊」全員の耳に入り、その背筋をぴくりと凍りつかせた。


「……怪物だ」

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