第六十三話 狂人の姿篇
パーティー会場のテラスから外に出ると、広大な中庭に繋がっている。中庭は直線的なデザインで小道を区切ったイングリッシュガーデンで、規律的かつ典型的な造りの庭だったが、薔薇園がある反対側、つまりアドラー邸の離れに通じる側の区画には、通常、あまり見受けられない植物が植えてあった。茨の木である。
枝に棘を生やした低木が、向こう側の離れを見通せない程に生い茂った様は圧巻である。ここに茨が植えられたのは、エリザベスが整形手術を受けてからしばらくしての事だ。エリザベスの父・ウィリアムが、エリザベスの母・アナを隠すように離れに住まわせた。それから、外から離れの中を覗けないように生垣を造り、人がここへ近づかないように、生垣の木には茨を選んだ。
エリザベスは茨園の端にある目立たない出入り口から茨の垣根を越え、離れの建物の扉を潜った。離れは赤茶色の煉瓦造りの建物で、母一人が生活するためにしては広すぎるくらいだった。実際、彼女はこの離れにおいて、寝室である一室と、趣味の部屋の二部屋ほどしか使用していない。彼女は日々の生活のうち、ほとんどを趣味に費やしていた。
この日もやはり、アナは趣味の部屋にいた。廊下に開いた窓からアナが在室していることを確認し、その部屋の扉を潜った瞬間、エリザベスの鼻をムッとした血の臭いが襲う。
大広間として設けられた広い床の上を、禍々しい拷問器具が立ち並んでいる。血の臭いは部屋全体にこびりついているが、今日の真新しい臭いの元は、部屋の真ん中に置かれた拷問台だった。ベッドのような形をした拷問台の横に、呆然と両手を下ろして突っ立っているアナがいた。
「また酷くやりましたわね」
エリザベスは、アナに声をかけるでもなく、完全な独り言でもなくそう言いながら、拷問台に近づいた。拷問台の上に寝かされていたのは、パーティー会場で騒いでいた男の次女、いなくなった十六歳の娘である。予想通り、既に事切れていた。
エリザベスが隣に立ってから、アナはやっと顔を上げてエリザベスの方を見た。
アナは虚な目をしていたが、エリザベスを認めた途端、半開きの口から悲鳴のような声を上げた。
「ああ、ああエリザベス! 大丈夫だった? もう安心するのよ! 悪い悪魔はお母様が退治してあげましたからね!」
アナが「悪い悪魔」と言うのは、若くて美しい娘たちのことだ。拷問台で惨い殺され方をした十六歳の少女は、アナに退治された「エリザベスに仇成す」悪い悪魔だったのだ。アナの拷問は、彼女にとって正義なのである。なぜなら、若くて美しい娘というのは、アナの愛しい娘を「悪魔の道」へ陥れた極悪人たちであるのだから――。
エリザベスは、アナの上下に揺れる瞳を眉をひそめて見つめていた。別に、自分の母のことを汚らわしい犯罪者だと思っているわけではない。ただ、哀れに思っているわけでもなかった。
アナは、エリザベスが初めての整形手術から帰ってきた後、徐々に精神を狂わせていった。まずは、エリザベスが「神の意志に背く犯罪の道」へ進むことを止められなかった自分を責めた。それから、エリザベスが何度も繰り返し整形手術を受けるのを見て、なんとしてもエリザベスを家から出すまいと画策した。エリザベスを部屋に閉じ込めることもしたし、時にはエリザベスに対しても拷問まがいのことをした。それでも、エリザベスを止めることができないとなれば、牧師を呼んできて、エリザベスに憑いた悪魔を取り払おうとした。しかし、何をやっても、エリザベスの美容整形を止めることはできなかったのだ。当然である。エリザベスは悪魔に誑かされて美容整形しているのではない。全くもって、自分の意志で決断を繰り返しているのだから。
最終的に、アナの矛先はエリザベス以外に向いた。エリザベスに悪魔が憑いているのでないならば、他人に憑いているのだと思ったのだ。それすなわち、エリザベスが自分の顔にコンプレックスを抱くようになった原因である。アナは、若く美しい娘のことを、エリザベスを誑かす悪魔であると見なすようになった。
最初にアナの手にかかったのは、アナの身の回りの世話をしていた使用人の娘であった。アナに無惨にも殺された使用人の遺体をウィリアムが発見し、事の次第を察したのだ。
アナを愛するウィリアムは、アナを牢獄に入れることができなかった。その代わり、アナがこれ以上、人を殺さないよう、彼女をこの離れに住まわせた。しかし、アナはエリザベスの母なのである。アナ本人が一度決めたことを、他人が辞めさせることは難しい。アナは離れに数々の拷問器具を取り揃え、茨園に近づいてきた若い娘を引きずり込み、拷問にかけるようになった。
エリザベスは、母が狂ったのは自分のせいであるとわかっていた。しかし、それに対して罪悪感を抱いたかと言えば、そういうわけでもない。エリザベスは、アナに「助けてほしい」「あの悪魔を殺してほしい」などと、一言も言っていないのだ。アナの狂った行動は、エリザベスの美容整形がきっかけではあるものの、アナが勝手に始めた行動なのである。
エリザベスは、ただ滑稽だった。エリザベスの美容整形に反対した母が、今やエリザベスのために人を殺し、母自身が神の示した道を外れている。それが滑稽に思えて仕方ないのだった。
「お年を召されましたわね、お母様」
エリザベスはアナの節くれだった手を握って言った。アナの手は、アナと同年代の女性のものと比べると、幾分か年を取りすぎているように見えた。エリザベスが子供を持つようになった以上、その母であるアナが老いるのも当然ではあるが……肌の皺、シミ、弱弱しくなった足、少し曲がった腰。昔見た、立ち姿の美しいアナの面影は、今やどこにもない。アナは、自分の体や容姿について、このところ手入れをしていない。この建物に閉じ込められて、ひたすらエリザベスのためを考えている。
「え? 何か言った、エリザベス?」
「……お母様。お外に出てはいけないと言ったはずでしょう? どうしてまた、悪魔を殺すような無茶をしたの? わたくしはお母様を心配しているのですわ」
「ああエリザベス!」
アナは部屋の奥に向かって走り出した。部屋の奥には祭壇があって、神が祀られている。本当に神を祀っているのかは、エリザベスにはわからない。元々信仰していた神の道からは外れてしまったので、まさか再びその神を祀りやしないだろうと思っていた。
「神よ、お聞きください! 私はまた道を誤ってしまいました! あなたの子息を殺してしまいました! それでも私は、私の道を行くのです……神よ、御覧ください。卑賎な愚族たる私を御覧ください……」
何者かわからないものを信仰し始めた母を、エリザベスは気分よく眺める。母と共に神の道を外れることができて、エリザベスは少しだけ、幸せな気持ちになっていた。狂った母の弱弱しい後ろ姿を眺めることは、エリザベスの心を、いつも少しだけ癒してくれた。
さて、と、エリザベスは拷問台の上にいる娘に視線を落とした。娘の遺体は、娘の父に見つからぬよう処理しなければならない。事情を知る家のものを呼んで運ばせる必要がある。パーティーが終わる前に、さっさと片付けたかった。
拷問台は、人間の両手両足をそれぞれ台に縛り付け、体を上下に引き伸ばしていく機械だ。ハンドルを回せば、拷問台は上下に伸び始め、まず肩と膝の関節が外れる。この娘の遺体は、ついに腹まで裂けてしまっていて、断絶された肋骨の下あたりのところで、伸び切った肌が空気の中でユラユラと揺れていた。
引きちぎられた肌は、薄暗い大広間の中でもわずかな光を透かして美しく見えた。エリザベスは、若くハリのある娘の肌を指先でスッと撫でてみた。
年を取るごとに失われていく理想の肌が、今目の前で、張り付くべき主人を失ってユラユラ彷徨っている。
「これだわ」
エリザベスは指をひっこめて、側にあった拷問器具の山からメスを探して取り出した。




