第六十話 華麗なる人生篇
「来たわよ、先生」
エリザベスがフレベリンの診療所に顔を出したのは午後六時、既に日は沈み、外套を着ていないと肌寒い季節だった。アドラー家の人間がここに来る時は必ず、診療受付が終わった時間を選んでいた。
エリザベスの年齢は三十路に入っていた。十年ほど前に他家の貴族から婿養子を取り、アドラー家の女主人として家事を取り仕切る立場となった。その数年後には跡取りとなる子供も生まれた。母親となった今でも、エリザベスは自らの美を保つために、定期的にフレベリンの検診を受け続けている。
診療室の奥には厚いカーテンで仕切られた空間があり、そのカーテンの向こう側には診療用のベッドが一台あった。普段の患者を診るために使っているベッドとは別物だ。道具箱を乗せたワゴンがベッドを取り囲んでおり、道具箱の中には怪しげな手術用の器具が、あるものは整然と、あるものは乱雑かつ所狭しと保管されている。ベッド上方の天井からは、床上に横たわったものを照らす電球が長い紐によって吊り下げられている。ベッドに横たわるものといえば、何もない時は主に死体、今日は特別に、エリザベスである。
「そこに横になって……何か気になることはありますか?」
「瞼が下に下がってきた気がするの。二重の幅が狭くなって」
「ああ」
フレベリンは首を緩く横に振り、仕方がないことだ、と宥めるつもりで言った。
「多少は、予測の内です。形成されたものは永遠に完全な形を保てない。加齢もある」
「加齢」
エリザベスは半身を起こして、ベッド脇の姿見に自分の顔を映した。
「加齢」
「……何か」
「いいえ。そうよね。わたくしだって、もう三十だもの」
「……女性に向けて、失礼を」
「いいのよ。訊いたのはわたくしだわ」
エリザベスは再びベッドに仰向けになった。フレベリンはメモ帳と鉛筆を持って、エリザベスの顔を上から見下ろしながら指示を出す。
「目だけで、上を見て。下を見て。右、左。口を横に伸ばして。開けて。歯を閉じて見えるように。笑って」
フレベリンの指示通りに、エリザベスは表情筋を動かしていく。これはエリザベスの人工物が混ざった顔が正常に機能しているかの確認の意味もあるが、主となる目的は、フレベリンの研究のための観察である。
「では、今日のところはヒアルロン酸の追加と……あと、先ほどの瞼の件を」
「お願いするわ」
§
美しく艶々と磨かれた状態で、エリザベスはアドラー邸に帰ってきた。屋敷の玄関ホールで女主人を出迎えるのは数人の使用人と、主人としては引退した、エリザベスの父である。
フレベリンのもとから帰ってきたエリザベスを、ウィリアムは必ず、にこやかに出迎えていた。
「エリザベス、おかえり。また一段と綺麗になって帰ってきたな」
「ありがとうお父様……心配しなくても、死体になって帰ってきたりはしませんわ」
「縁起でもないことを言わないでくれ」
「……お父様。わたくし、本当にまだ綺麗?」
いつものエリザベスなら、軽く挨拶程度に言葉を交わした後、すぐに自室へ戻ってしまうはずだった。ところが、少し調子を暗く落とした声で念押しのように「綺麗か」と問うエリザベスに、ウィリアムは空恐ろしい異変を感じて、敢えて笑みを深くする。
「ああもちろん、綺麗だとも」
「まだ?」
「? ああ、綺麗だ」
「そう」
少し俯いたエリザベスの表情は、やはりまだ腑に落ちていないようにも見えた。しかし、エリザベスはそれ以上同じ質問を繰り返すことはせず、静かに自室へ足を向ける。
そこへ、今年九歳になるエリザベスの一人息子が、二人の侍女を連れて玄関ホールに降りてきた。
「お母様! 今日もたいへんお綺麗ですね!」
「ありがとう、リアム」
リアムは、エリザベスの金髪を見事に受け継いで生まれた少年だった。リアムは白いシャツに黒いズボン、白のタイツという畏まった服装で、エリザベスに向かって礼をすると、もじもじとしながら本題に入る。
「それで……お母様。お父様は、まだお仕事から戻られないのでしょうか?」
「ああ……そうね……」
エリザベスの結婚相手は、数年前に、黙ってアドラー家を出ていった。本当ならもっと早くに愛想を尽かされてもおかしくなかったとエリザベスは思っているが、果たして、結婚して数年間を特に問題なく過ごせていたのは、その頃はまだ、相手がエリザベスの美しい顔を、生まれ持ってのものだと思い込んでいたおかげである。
息子とは、往々にして母に似るものだった。リアムは髪だけでなく、顔立ちまでエリザベスにそっくりだった。ただ、もちろん、整形は遺伝しない。
リアムが成長するにつれて、息子の顔が、父と母どちらにも似ていないことに、誰もが気がついた。リアムの父はまず、妻の不貞を疑い、それからエリザベスの顔の真実を知って、こう叫んで一週間寝込んだ。
「悪魔だ!!」
その一週間、誰も彼に会っていない間に出奔の準備を済ませ、リアムの父は人知れず行方をくらました。彼がいなくなったのに気づいた時、まるでエリザベスの母、アナのようだと……エリザベスはたったそれだけを思った。
エリザベスがフレベリンのところに出かける時、周囲の人間は口裏を合わせ、リアムには「仕事に行く」と伝えている。父がいなくなったことについても、「お父様は仕事で戻ってこない」という風に伝えているので、リアムの中では「母は仕事に行っている=父に会いに行っている」という式が成り立っているのだろう。だから、こうやって帰宅したエリザベスに父の様子を尋ねてきているのだが、生憎、リアムの健気さが強調されて見えるだけである。
「残念ね、リアム。お父様は当分お忙しいようよ」
「そうでございますか……」
素直なリアムは、重ねてエリザベスを問い詰めることはしない。リアムの頭を撫でてやった後、リアムを部屋に戻すよう侍女へ指示するため顔を上げたところで、リアムについていた侍女二人のうち一人が、見慣れない娘であることに気がついた。
その娘はまだ十代だろうか、装いを変えれば少女と呼んでもいいほどに若い外見をしていた。
エリザベスがその侍女に目を留めたのを見て、隣に立っていた年嵩の方の侍女が、一礼後、彼女の紹介を始める。
「恐れ多くも奥様、こちらは、今日から新しく奥様にお仕え致します、ルーシーという者でございます」
「そういえば、新しく人を雇う話をしていたわね。随分若いようだけれど、いくつ?」
「十六でございます」
「そう。わかったわ、下がりなさい」
リアムを連れてその場を離れる侍女をぼうっと見送り、ふと、自分の手を見下ろした。加齢とは恐ろしいもので、止めることはできないし、逃れることもできない。どれだけ努力しようとも、醜さの欠片は、知らぬ間に他人の目に曝け出されている。
若者というのは、あんなにも肌が綺麗なものかと驚いた。加齢によって衰えるのは、なにも整形した顔の部位だけではない。全身の肌が、体の作りが、どうしようもなく醜くなっていくのだ。




