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極夜の館―怪物(まよいご)たちのほのぼの日常日記―  作者: 畔奈りき
記録:不死の美貌・エリザベス
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第五十七話 母と娘篇

「医師フレベリンをお呼びした訳を聞きました。馬鹿なことを考えるのはやめなさい」


 エリザベスの母は、エリザベスを屋敷の拝堂に連れてきた。ここはアドラー邸の二階にある一室で、拝堂といっても、完全にプライベートな空間であった。身内以外が礼拝に集うことを想定しておらず、広さは主人の私室と同程度のもので、装飾も華美でなく、部屋の奥に祭壇があるだけの内装である。しかし、それがかえって厳格な修道院のようで、この潔癖な静謐さに、エリザベスはつい先ほどまで心の内に固めていた禁忌を犯す覚悟というものが、端の弱い部分から溶かされていくような思いがした。母がエリザベスをここに連れてきた狙いというのも、正にそうやって、娘を改心させるためなのだろう。


「あなたの心は、今、疲れているのです。あなたはまだ若い。その未熟な心で初めて屋敷の外に出て、様々に刺激を受け、混乱してしまっています。そのせいで、普段なら決して考え至らないようなことを思いつき、実行しようとしているけれど、それらは全て、あなたが本当に望んでいることではないのです。あなたに今、本当に必要なのは休養です。お医者様に馬鹿なことをお願いするのはやめて、今の健康だけを診てもらいなさい」


 しかし、一度ほつれを見せた覚悟の心もすぐに繕われて固まった。さらに、この母の説教めいた言葉を聞いて、エリザベスの気持ちは、かえってより強固になり二度と覆らなくなった。

 エリザベスは前で揃えていた両手を握りしめる。元来大人しい性質だった娘が、キッと自分を睨んだのを見て、母親アナは顔を強張らせた。

 エリザベスは、母の灰色の瞳を刺すように見て、先の説教に言い返した。


「馬鹿なこと? 馬鹿なことと仰いますか、お母様。あなたの娘が必死に考えて決めた覚悟を、馬鹿げた偽物の感情だとして一蹴するのですか。お母様には、さぞやわたくしの真実が見えていらっしゃるのでしょうね。わたくしの心を、わたくし以上に知っていらっしゃるようですから」

「何です、その嫌味な言葉遣いは。子供は素直でありなさいと常に言ってきたはず。本当のあなたはそんな物言いをする子ではないでしょう」

「子供のことをいつまでも『子供』だと思っている母親に、勝手に気持ちを推し量られ、元あるものを否定されては、たまったものではありませんわ。わたくしはもう、社交界に出て外の世界を知った、子供と呼ばれるべきではないのです。お医者様だって、わたくしが自分の意志でお呼びしたのに、後からお母様にとやかく言われたくはありませんのよ」

「そういう考えが幼いというのです。今の自分の言動が、どんなに愚かであるか自覚もしていないのでしょう。そんなあなたを一人前のレディとして扱うなんてできません。一人で行動できていると思っているなら大間違いです。母の言うことを聞いておきなさい。わたくしはエリザベス、あなたがいずれ、後悔してしまうことを心配しているの。あなたが嫌いで、否定したくて言っているわけではないこと、あなただってわかってくれているでしょう?」

「わたくしのことをわかったように語って、今度はお母様の気持ちをわかれと、わたくしに強要するのですか」

「強要しているわけではなくて」

「強要しているでしょう! わたくしの意志を、あなたは否定したのでしょう! もういいです、これ以上フレベリン医師をお待たせするわけに参りません」


 エリザベスは、最後にアナを下からギロリと睨みつけると踵を返した。緑色のスカートが翻り、床を擦る音がする。乱暴な仕草で退室しようとする彼女を、アナはその場から声だけで引き留めた。


「神に、背を向けるというのですか!」


 扉の取っ手に手を掛けていたエリザベスは、ようよう涙が滲んできていた瞳をカッと見開いて母を振り返った。アナの言葉に胸打たれたわけではない。泣いてしまわないように、あえて目を見開いて涙をこらえたのだ。既に白目が赤くなっていることは自分でもわかっており、出来ればそれを母に見られたくなかったが、「神に背を向けるのか」――心の最も後ろめたい部分を突くように言われてしまっては、振り返って睨みつけざるを得なかった。


泣いてしまいそうな理由は単純なことで、母に否定されたと思ったこと、説教されたこと、そして、こんなやり取りは親子の間で珍しくないはずなのに、現にベソをかいてしまいそうな子供っぽい事実が、母の言い分の正しさを証明しているようで悔しかったのだ。エリザベスの母は子思いで常識的な人であった。時として厳しいが、母から愛情を感じない瞬間は、今までの人生で一度もなかった。母が自分を心配して説教してくれていることに、エリザベスは確かに気づいていた。

 だからこそ、エリザベスは母の厳しく響いた言葉に、こう返した。


「わたくしが背を向けたのは神ではありません、あなたです!」


 アナは、祭壇を背後にして立っていた。戸口のエリザベスからは、祭壇に飾られた十字架と、実母がぴったり重なって見えた。アナは唇を噛みしめている。エリザベスを生んだこの人は、エリザベス同様、華やかな顔立ちをしていない。しかし、その気品は貴族の中でも特に優れ、夫人としての能力も高く、もう少し身分が高ければ、アドラー家のような弱小貴族でなくとも嫁げただろうにと言われていた。


「エリザベス、あなたの顔は、これからもっと成長する。あなたはまだ若いのだから、何も心配することはないのです。それに、女性の価値は、見た目だけでは決して無い。今のあなたが焦って顔を変えようなんて考える必要はなく、ゆっくり成長していけばいいの。わたくしの話が信じられないのなら、わたくしの気持ちだけでも信じてちょうだいな。わたくしは、そしてお父様も、あなたのことを、本当に心から可愛く思っているのですよ」


 エリザベスは、アナの姿を眺めた。上等なオフホワイトのレースが、緑色のドレスの襟元を覆っている。もう年若いわけではなく、家にいるだけなら美麗に飾り立てる必要もないため、ドレスのスカートの広がりは、それほど大きくはない。しかし、踊り子ですら恥じらうほどの立ち姿は凛としていて、仕草の一つ一つは上品だ。そんな完璧な胴体から少し視線を上にずらすと、細い首の上に、自分とよく似た凡庸な顔が乗っている。


 どれだけ完璧な振舞いをしても、体のてっぺんに乗った顔は決して追いついてはくれないの――!


 エリザベスはそこに、自らの将来の姿を見た。


「わたくしは、お母様のようには成りえない!!」


 エリザベスは叫んで、拝堂を飛び出した。彼女の頭の中には、初めての社交会で見た年の近い少女たちの、美しい笑顔がフラッシュバックしている。瑞々しく可愛らしく、ただ立っているだけで上品に見える彼女たちの顔が、若い貴族の娘としてあるべき姿として、エリザベスの脳裏に張り付き、心に暗く染み付いている。


 アナは、エリザベスを追いかけて拝堂を出てきた。客室へ足早に戻っている背中に、アナはここ十年発していないような大声で怒鳴りつけた。


「神の定めに背くことは、あなたが思っている何倍も、何倍も、いけないことですよ!!!」


 神の定めに背くことはいけないことですと。

 切羽つまったか、また随分と初歩的な指摘をされたものだ。

 そんなことは、お母さま、あなたが考える何十倍もわかっている!


 エリザベスは足を止めなかった。客室に戻ったら、開口一番にフレベリンへ顔の手術を依頼し、どんなリスクを説かれても頷こうと決めていた。


 だって、お母様。神の定めに背くことがいけないことだというのなら、そんな定めなんて最初から無かったことにした方がいいに決まっている!

 エリザベス・アドラーは貴族の娘でありながら不細工に生まれ、生涯どんなに努力をしようとも品の良いブスにしか成り得ず、己の努力で手にした価値に見た目が追い付くことはない――なんて、神がそんな巫山戯たこと、わざわざ定めたとでも、お思いか!

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