第六話 図書室篇
目の前が真っ赤になった。
「え……?」
「君これ、なかなか古いスカーフだね?」
何時の間に近付いたのか、青年の背後には吸血鬼が立っていた。青年がいつも首に巻いている赤いスカーフの結び目を外して眺めている。広げた布が丁度顔の前に目隠しのように被さっていて、青年は煩わしいそれを奪い取った。
「ちょ、何勝手に取ってんすか」
「小僧がいつまでもボケッとしてっからじゃん」
横から、水槽に入った人魚が見下ろしてきている。そのすぐそばの椅子に、ゾンビ嬢。ああ、吸血鬼が近づいてきたのではなく、青年の方が部屋を一周して戻ってきていたのか。
「あ……、え?」
「だから、朝ごはん。ここで食べるの? 食べたくないの?」
「ああ、そういやそんな話でしたっけ。えっと……」
§
というわけで、これからの食事は大食堂で取る運びとなった。
というのも、青年が人魚の問いかけに、こう答えたからである。
「どっちでもいいすよ。ちょっと怖いだけで、普通の絵っすもん」
こう言われてしまえば、かねてよりこの豪華な城で食事することを切望していた人が飛び跳ねるのである。
「どっちでもいいって言ったね!? どっちでもいいんだね!? 嫌って言わなくていいんだね!?」
まあ、今まで食卓を囲んでいたのは三人だけだったから間に合っていたものの、可動式のでかい水槽が加わったことを思えば、あの使用人休憩室では手狭というものだろう。いい方向に転がったんじゃないかな? そんなに深刻になることでもないでしょ。お掃除お疲れ様でしたー!
青年が吸血鬼に呼び止められたのは、朝食を終え、暇を持て余した頃のことである。
「なんすか急に。あ、すいません昨日の夜は。先に寝ちゃって」
「いいや、私は人間みたいに細かな睡眠は必要としないし……途中からレディ・アンデッドも手伝ってくれたからね」
「えっ、姉さん手伝ったんすか? マジすいません。つか仲直りしたんすね、やっぱり」
「いやあ仲直りっていうか、私が勝手に……。……君、レディも手伝ったって知った途端態度が殊勝になったね」
「え、なんでここ?」
吸血鬼について玄関ホールを横切り、大食堂と対面側に伸びる廊下の最奥で立ち止まる。背後には大浴場。目の前にあるのはシンプルな木のドアである。
「あんたの寝室っすよね?」
「違うよ?」
「え?」
青年は思わず、勢いよく隣を振り向いた。吸血鬼は眉を下げて青年を見返し、いやちょっと馬鹿にしてないか? 長い息を吐きながらゆっくりドアを開けた。
「でけぇ本棚……」
「図書室だよ」
壁掛けのランタンにコウモリが飛んで行って、部屋を明るくしていく。下から上に、黒い影が昇って、ひらめいて。
「二階~!?」
「吹き抜けだよ」
青年は、部屋の中央まで駆けていって上を見上げた。長方形の部屋の壁をぐるりと一周するように本棚が埋めつくしている。天井はずっと高い所にあって、二階部分の回廊に梯子で登れるようになっていた。
「めっちゃ本あるっすね」
「図書室だからね。君、ここの存在知らなかったの?」
「なんかさっきから俺が無知の田舎モンだみたいな顔してきますけどね! あんたが『おやすみ』の後にここに引っ込むから、あんたの部屋だと思ってたんすよ! こっちは! あんたのせいっすからね!」
「田舎モンとは……ああ、まあ確かに、私の部屋だと思っていたなら不用意に入ったりはしないね。ごめんごめん」
「何でいっつも夜ここに入るんすか?」
「それを言うなら、寝室という理解も間違ってはいないからだよ。ほら」
そう言って、吸血鬼は部屋の奥まった場所を指さした。振り返れば、一階の、壁際の本棚に近い場所。近くにランタンがなく、二階の回廊の影に入る場所に、黒くて大きな棺桶が寝そべっていた。
「やっぱここで寝てんじゃないっすか! ……え、マジで棺桶で寝てるんすか?」
「一応、仮眠用だよ。何度も言うが、私は定期的な睡眠を必要としないからね。偶の夜には図書室に籠って、疲れたら寝るようなことをしている。私物化してしまっていて悪かったね」
「いやまあ、全然いいっすけど……」
よいしょ、と青年は棺桶の上に腰かける。
「おい」
「で、なんで俺ここに連れてこられたんすか?」
「ううん……」
仮にも他人の寝台に……と一瞬眉を寄せた吸血鬼だったが、特に文句を言うことはせずに、軽く唸りながら棺桶近くの本棚に向かう。そこから、分厚い本を二冊取り出して、青年に寄り添うように棺桶に座った。
「さっき君、食堂の天井画を見て『普通の絵』だと言ったじゃない」
「えっと、はい。ちょっと怖いっすけど」
「ああ、確かに怖いね。ところでアレ、多少知識のある私にしてみれば普通の絵とは呼べないものなんだよ。その知識っていうのは、全てこの図書室の本で得たものだが、この館の謎を解明するにはぴったりの情報源だろう?」
「それは、わかるっすけど……。普通じゃないって、どういうこと? あの絵に、何か意味があるんすか? 物語になってるっぽいなってのは思ったんすけど」
「これ」
吸血鬼は青年の膝に、どんと一冊目の本を置く。硬い表紙の色は黒く、タイトルは擦り切れてしまっているので、名の無い怪しい辞書のように見える。
コウモリが一匹、ランタンを青年の横に運んでくる。本を読むのに十分な光源を手にいれた所で、青年はそっと一ページ目を開いた。
「……俺、活字無理なんすよね」
「最悪。ゆとり世代が」
「ゆとり世代? 何? それ俺? あの、さっきからちょっとあたり強いのって、吸血鬼さんが読書好きなせいですか?」
「そう」
吸血鬼は横から手を伸ばして、青年が抱える本のページをめくっていった。第二章くらいか、めくる手を止めたのは図鑑のような見開きのページだ。右のページには文字がびっしり、左のページには、逆さまの十字架。
「あ、これさっき食堂で見たやつ」
「うん、気づいたかい? そうだ、ところで君、何か宗教は信じてる?」
「俺はそういうのないっすねぇ。親は礼拝とか熱心にしてた気がしますけど」
「ふむ。そうだね、まずはこの本のことを話そうか。これはね、悪魔信仰の解説書なんだよ。逆十字っていうのは、その象徴だ。イメージしやすくすれば、もともとこれとは反対向きのクロスこそ神様を表すマークで、この向きが神への反逆を表す」
クルクルと本を回しながら、吸血鬼は青年に語りかける。青年は、向きを変える十字を目で追ってうんうんと頷いてみた。
「なんとなくわかりますけど。なんでそんな本がここに?」
「もちろん、この極夜の館の本来の持ち主が、悪魔信仰だったからだよ」
青年は吸血鬼の顔を見返した。
「ここが、極夜の館って名前だから?」
「いや、館の名前は私が勝手につけたものだ」
青年は吸血鬼の顔を暫く見つめたまま、視線をそらさなかった。極夜の館って、あんたがつけたの? そうだよ、何か文句ある? 館の本来の名前なんて知らないんだから。丸っこくて可愛らしい瞳と、赤いアーモンド形の瞳が、我を通そうとしてかち合う。
果たして、大人気がまさったのは青年の方だった。
「じゃあ、天井画が怖い感じだからってだけ?」
「それもそうだけど、もう一つあるんだよ。もしそれだけなら、わざわざ君をここに連れて来ないさ。ほら君、食堂の暖炉の上に嵌っている、鏡の装飾は見たかな?」
「鏡の装飾……」
視線を落として考え込む青年に、吸血鬼は軽く微笑んで彼の肩をぽんと叩いた。
「まあ、この後確認してみればいいよ。ひとまず聞いてもらいたいんだけど、あの鏡には悪魔の姿をした男女のレリーフが施されていたんだ。背中にコウモリの羽が生えたようなね。男女と聞いて、君は何を思い浮かべる?」
「……、エロい話?」
「ちょっと惜しいかもね」
「じゃあ、お父さんお母さんとか?」
「いいね。その言い換えに両親を持ち出す感性、嫌いじゃないよ。そうそう、つまり創世記だね。宗教によっては創造主そのものの象徴になるかもしれない。要は、男女の像っていうのは、もともと神聖なものってことだよ」
「その神聖な像を、わざわざ悪魔の姿に改造してるから、悪魔信仰だってこと?」
「その通り」
吸血鬼は二冊目の本を自身の膝に置いて開きながら、青年へにっこりと笑顔を向けた。
「だんだん、想像がついてきたんじゃないかい? この極夜の館には、元の主の趣向が、そこかしこに垣間見えているんだよ」
青年は一度黒い表紙の本に目を落とし、再び吸血鬼の方へ、体ごと向き直って言った。
「もしかして、俺らを館に集めているのは、その元の主の趣味嗜好だったりします?」
吸血鬼は、子どもの成長でも見守るように、満足げに頷いた。