第五十六話 医師フレベリン篇
アドラー嬢エリザベスに呼び出された町の名医は、首を縦にも横にも振らず、ただ彼女と自分との間にある斜め下の空間を見つめながら、頑として言った。
「なりません、お嬢様。仰るような内容の手術は、禁忌と呼ばれる類のものです」
この医者は、山の麓にある小規模な町で質素な診療所を営む開業医であったが、その腕前の評判はアドラー領一、小さな噂程度の口コミも入れれば、領内に留まらぬ名医であった。彼は患者を診察して薬を処方する、内科医の仕事を主にしていたが、一方で、外科医のように人体を切り刻むことにも興味があるという、裏の顔を持っていた。本来、医者とは特別な頭脳職で、貴賤でいえば明らかに貴き身分であり、人の血で手を汚すことはない。外科手術が必要となれば、「手を汚せる」身分の人間を雇ってメスを握らせるのが普通だった。とはいえ、この頃、自らメスを握って人体の構造を解明する「解剖学」が、新しい学問として芽生えてきていた。アドラー領が誇る名医……フレベリンも、その新しい学問の担い手の一人であったのだ。
このような医学界の事情について、彼を屋敷に呼び出したアドラー嬢エリザベスは、もちろん全くの無知だった。彼女は、ただ「一番腕の立つ医者を呼んで」と執事に命令し、忠実な執事が言葉通りに実行しただけで、フレベリンが裏で解剖学を嗜んでいることを知って、ここに呼び出したわけではなかった。しかし、彼女の幸運と言うべきか、神の定めというべきか、彼女は自身の望みを叶えるに最も適した人材に、今、当たることができている。
エリザベスは相変わらず細かな事情を知らないままだが、フレベリンの返事から、自分が幸運を引き当てたかもしれないことに気がついていた。
エリザベスは一度目を閉じ、落ち着いてから尋ねる。
「できないとは言いませんのね。ただ、禁忌であると……そのような理由で断ると」
「畏れながらお嬢様。禁忌であるということは、できないことと同義でございます」
「そうでしょうか。わたくしは、その二つの違いを説明できますわ。できないということは、ものの道理として、人が持つ技術が為すことを許さないということ。禁忌とは、心の道理として、神が為すことを許さないということ」
「お嬢様は、神が許さない大事を現実に為そうと仰るのですか」
「そうすることでしか、わたくしの心が助からないのであれば……禁忌を犯せない心の道理よりも、今の心の苦しみの方が大きいのであれば、禁忌を守る意義すらないではありませんか」
「しかし、お嬢様。我々の存在など、神の前では砂粒に等しい」
気が狂ったにしては嫌に落ち着いて見えるエリザベスを客間の下座から眺めながら、フレベリンは口から出た言葉に内心で自嘲した。人間など、神の前では砂粒に等しい。それは勿論のことである。だがしかし、フレベリン。貴様は砂粒の身で神の如く、他の砂粒の身体を弄り回っているではないか。他人の体を切り刻み、神に生み出され何の瑕疵も無いはずの人体の仕組みを、身の程知らずにも解明しようとしている。既に禁忌に触れている自分が、なぜ、未だ禁忌を口にするだけで清らかなままのエリザベス嬢を咎めることができようか。
これ以上、頼みこまれるようなら、自分にはもう断る術がないと、フレベリンは思い始めていた。禁忌を犯すことで自分の望みが叶うなら、人がその危険な壁を超えられないとは限らないと身をもって知っていたし、エリザベスの様子もまた、そんな壁くらい容易く超えてきそうであった。
フレベリンの内心の葛藤を知らず、エリザベスはフレベリンが言った年長者らしい説教に眉を吊り上げた。
「砂粒? 神の前では、わたくしの苦悩なんて砂粒以下だと言いたいのですか!? ええそうでしょう、そうでしょうね。小さなわたくしの小さな悩みなんて、神様は一切関心がないでしょう! 神様はそれでいいかもしれませんが、わたくしは!? 悩むのも苦しむのも、こんな現実に対面しているのも、全てわたくしなのですよ! この苦悩が大きいものか小さいものなのかは、神ではなくわたくしが決めることであるはずです!」
それに、と、エリザベスは続ける。
「医師フレベリン。貴方をここに招いた時点で、わたくしは覚悟をしているのです。これが禁忌であることなど、誰に言われなくともわかることですから! 生まれ持った自分の顔にメスを入れ、形を作り替えようなんて」
いよいよ、フレベリンは首を垂れた。言われなくてもわかっているだと。エリザベスは、既に覚悟の上であったのだ。
そうまで思い詰める切掛が何であったか詳しくは知らないが、この素朴で清らかな令嬢が茨の道へ進まぬよう、自分のことを棚に上げてしまって、穏便に説得することはできる。しかし、この強い意志を湛えた瞳を見てしまうと、新たな時代へ踏み出そうとする若者を導くのも、先達の年長者の務めなのではないかと思った。
フレベリンの中で、エリザベスからの手術の依頼を断る気が失せてきていた時、フレベリンに代わってエリザベスの企みを阻止しに来た者がいた。
「何を巫山戯ているのです」
客間の戸口から厳しい声でそう言ったのは、エリザベスの母、アナであった。
「お母様」
「黙りなさい。いい子だから、こちらへ来なさい」




