第五十五話 社交会の日
ロンドンは霧の街と呼ばれるが、英国北部の山間地であるアドラー領は、霧に限らず、変化の多い天気に特徴付けられる。二月、アドラー家の屋敷には、屋根にも庭にも雪が積もり、まつ毛も凍る寒さの中、使用人がせっせと雪かきした道を、四頭馬車がゆっくりと走って停車した。
社交会が行われた屋敷は平野にあって、ここよりもずっと温かく快適だ。走りやすい道になれてしまった馬たちは、アドラー領の山を登るに連れてあからさまにげんなりし始めた。山の寒さに驚いたのは人間も同じで、アドラー領主・ウィリアムは首に巻いた毛皮を掻き寄せ、大慌てで馬車を降りた。
ウィリアムの後に続いたのが、アドラー家の一人娘、エリザベス・アドラーである。この度の社交会は、彼女と同じ十六歳前後の嫡女嫡男を持つ貴族が集まり行われたものだ。つまりは、見合い前の顔合わせのようなものである。エリザベスは、今回が初参加の社交会だ。彼女が自分と同じ十六歳の少女たちに会ったのは、今回が初めてであった。
屋敷の中に入ると、寒さで湿ったコートを使用人の女たちが脱がせてくれる。ウィリアムは暖かい家の中で身軽になると、エリザベスへ上機嫌に尋ねた。
「さて、初めての社交会はどうだったかな、エリザベス? 誰か、お友達でもできただろうか? というのもだね、別に私は、すぐにも見合い相手を選ぶ必要は無いと思っていてね? 友達だ、友達でいいんだ。ここは山奥だから領民の家も少ないし、一つ一つが離れているだろう? だから、お前はいつもひとりぼっちで居ることになって、残念に思っていたんだよ……」
エリザベスもまた、コートを脱がされながらウィリアムの話を聞いていた。しかし、その目は彼女の父と交わらず、斜め下を睨むように見つめ続けている。ウィリアムは、馬車に乗って帰路についてからというもの、エリザベスの顔が浮かない様子で変わらないままなことに気がついていた。だからこそ、明るく声をかけようと思ったわけだが、彼の心遣いも虚しく、エリザベスは暗いとも辛いともつかない表情で、声を低めて言った。
「お父様。わたくし、若いだけで美しくないのね」
それを聞いたウィリアムは愕然とした。それから大きく狼狽えながら、エリザベスに問う。
「どうしてそんなことを言うんだ、エリザベス! お前はとても可愛い! 父様も母様も、いつも言っているじゃないか! 用意したドレスが気に入らなかったか? もしかして、流行りのものじゃないと誰かに馬鹿にされたのか!? こればっかりは……私も、都会の流行には疎くてな、ちゃんとした仕立て屋を呼んだんだが……」
エリザベスは父の話を最後まで聞かず、二階の自分の部屋に上がって行った。父とすれ違いざまに目を伏せ、感情を抑えた声で言う。
「違いますわ。違いますったら……」
アドラーの屋敷は、数代前に要塞機能を持たせて建てた姿のままで、灰色の石レンガ造りはエリザベスの心の腫れを冷やして癒した。
エリザベスはメイドを全員部屋の外に出した後、からっぽの寝室に走り込んで枕に向かい叫ぶ。
「違う!!! 違うじゃない、嘘つき!!!! わたくしが生まれてから今まで出会った人間全て、どいつもこいつも全員嘘つき!!!!」
エリザベスの叫声は部屋の外までしっかりと聞こえていた。メイドたちは驚いて周囲をキョロキョロと見回り、そこで、ウィリアムがエリザベスを追いかけて、娘の部屋までやってきていたのに気づく。ウィリアムはメイドたちの不安気な視線を受けながら、自らも呆然として、高く絞められた扉を見つめるだけだった。エリザベスは品行方正で令嬢としての模範たり、声を荒らげたことなど今まで一度もなかった。しかし、この様は一体、どういうことだろう。ウィリアムは、社交会で誰かが娘に悪口を言ったに違いないと考えた。
しかし、実際には、エリザベスに対して「不細工」だとか、「不美人」だとか、「醜女」だとか「下品」だとか「豚」だとか、そんなことを言った人間は一人も居なかった。ただ、エリザベスが勝手に自分の顔と他の少女の顔を見比べて絶望しているだけなのだ。
とはいえ、エリザベスを追い詰めるには、「美醜の事実」、それだけで十分だった。蝶よ花よと育てられてきたエリザベスだが、他の貴族令嬢と比べてぱっとしない顔立ちであることは、一目見れば明らかだった。今までなら黙って立っているだけでも可愛がられていたのに、社交会での自分は虫ケラも同然だったのだ。そうかといって、彼女に直接「不細工には興味がない」などと伝える人間など居なかったが、それを彼女は、「気を遣われている」と負い目に捉えて、やはり彼女の大事に育まれたプライドを傷つけた。
「ううううううううう!!! ううううううううう!!!」
エリザベスの怪物めいた叫びは三日三晩続いた。疲れ切ったエリザベスがついに眠り、次に起き上がった時、メイドが部屋をノックした。
「お嬢様……、お風呂のご用意ができております」
エリザベスの声が途切れたのを合図に、お湯の準備を整えていたのだ。
エリザベスはのそのそと起き上がって浴室に向かった。その頃には、社交会のために整えていた化粧はもちろん崩れ、泣き喚いたために目は腫れ上がり、それはもう酷い有様だった。そんな自分の姿を浴室の鏡で見たエリザベスは絶句し、そしてすぐに納得した。
「そうね、わたくしの顔はこんなものだったわ……」
エリザベスの叫び声の内容と、ウィリアムが見聞きした彼女の言動を照らし合わせ、エリザベスが泣いている理由について最初に思い至ったのは、エリザベスの母だった。メイドたちは奥様からエリザベスのことを気遣うように言われており、鏡を見たあと動かなくなったエリザベスへ、一人のメイドが眉根を下げて声をかけた。
「お嬢様の本当のお顔は、今のようではございません。今は大変お疲れになっていて、それがお顔に出てしまっているだけでございます。本当のお嬢様はもっとお綺麗なのですから、まずはお湯に浸かって、お身体を休めてくださいませ。そして元気になって整えれば、きっとお美しいのですから……」
エリザベスは「きっとお美しい」というメイドの言葉に拳を握り、その手で浴室の鏡を叩き割った。鏡の破片は飛び散り、メイドたちがその場から退く。破片が刺さって血だらけになった拳を見て、エリザベスは「はっ」と息を吸い込んだ。
エリザベスはそのとき、赤く染まった拳を見て、とある天啓を得たのであった。当時、血といえば医者の領分で、医者のいない場で血を見たことなど、エリザベスは一度たりともなかった。
だから、エリザベスが次のような発想に至ったのも--下手な連想ゲームのようであることを多めに見れば--当然と言えるかもしれない。
「顔を……作り替えましょう」




