第五十四話 似てない同一人物篇
エリザベス・アドラーは十六世紀英国の地方貴族であった。アドラー家の名は有名ではなく、地位もそれほどに高くなく、一人娘の彼女について、世間には全くといっていいほど知られていない。しかし、アドラー家の主人は当家の無名っぷりを、「不幸中の幸い」と評していた。
娘が生まれる以前なら、もちろんもっと力を付けたいと考えていた。娘がもう少し小さかった頃なら、より富を増やしたいと。しかし、この娘が年頃の女性にまで成長し、社交界デビューを果たした後は、世間の目から逃れるように息を潜め、目立った行動を極力差し控えていた。
彼女の異常性が発露したのは、三十年前に地方貴族の間で開かれた社交会において、初めて同年代の少女たちと対面した時からであった。それまで、貴族の一人娘の立場で蝶よ花よと育てられてきたエリザベスは、普段から投げかけられる「可愛らしい」「美しい」という声を真に受けて、「もちろん自分は美しい」と思い込んでいた。実際に、エリザベスの顔は不細工というほどではなく、両親などは、心から愛嬌があって可愛らしいと褒めていたわけだが、彼女の顔の美醜については、他の貴族の少女と見比べた時の彼女自身が、一番よくわかっていた。
その日、社交会から帰ってきたエリザベスは、自分の父であるアドラー卿に向かって、しかし父とは目をあわせないまま、ポツリと言ったのだ。
「お父様。わたくし、若いだけで美しくないのね」
§
ソファーに座りなおした吸血鬼の右隣には、ミカがその身を吸血鬼へピッタリとくっつけて座っていた。吸血鬼の手の中にある「Elizabeth」の日記の挿絵を、熱心に見つめるためである。開いた本の左ページには、ドレス姿の若い娘が一人、横を向いて立つ姿が黒いインクで描かれていた。
その顔は説明文にあるように、ある程度整ってはいるが、これといってパッとしない、不細工ではないが美人でもない、平凡な造りのように見えた。ミカはこの挿絵の女性と、サロンの片隅で膝を抱えて座るエリザベス姉さんを見比べて、あんまり似ていないな、と思う。極夜の館に住むエリザベスは、挿絵の女性よりもずっと整った顔立ちをしていて、可愛らしく、美しかった。もちろん、ゾンビである分、肌には艶がなかったり、色がおかしかったりはするのだが、鼻の高さや目の形などに、生前の美しさがしっかりと残っているのである。
サロンの片隅で座りこんでいると言ったが、自分の日記を読んでもいいと言い切ったエリザベスは、その後しばらくしてソファーから離れ、大水槽がある側の壁の角に尻をはめ込むようにして蹲り、そこから動かなくなっていた。ミカがソファーから見つめても顔を上げず、ドレスに包まれた膝のてっぺんを見つめている。
日記の持ち主(というか、日記の主人公というべきだろうか? 一番正しい言い方をすれば、記録対象者だ)がそんな調子なので、吸血鬼はいよいよ続きを読みたくなくなっていた。それに加え、日記の冒頭に書かれていたエリザベスの社交界デビュー時のエピソードを読んだために、以前エリザベスの腕が取れた時のことを思い出して、余計に気が萎えていた。
――セレーンの体を持ち上げた拍子に、エリザベスの腕が取れた時。彼女の腕を縫い付けたのは吸血鬼だが、その腕の皮膚について言及しようとした彼を、エリザベスは物凄い形相で睨みつけた。彼女の皮膚は、彼女が生前から何やら怪しい施術を体に施していたことの証拠になり得、実際、その過去に気づきかけた吸血鬼を、エリザベスは鋭い目で黙らせたのである。
ミカもまた、あの凶悪な顔を傍から見ていた。エリザベスには触れてほしくない過去があり、過去の話を嫌う気持ちがどれほど強いのか、ミカと吸血鬼はその時に知ったはずだった。しかし、ミカはその後、一度記憶を失くしている。今のミカは、エリザベスのあの恐ろしい表情を知らないのだ。もしミカが記憶を忘れずにいたのなら、たとえ彼女自身が読んでくれと言おうとも、その申し出を断るなり諭すなりしてくれただろうにと、吸血鬼は思う。
三人中、二人が「日記を読む」選択をしている時点で、吸血鬼の形勢は不利なのだった。それでも吸血鬼は諦めず、最後にもう一回ということにして、エリザベスに問いかける。
「レディ。本当は嫌なんでしょう? 君がそうやって座り込むなら、私はこれ以上、日記を読まない」
しかし、エリザベスは首を横に振った。
「わだぐじには構わないで。ごうじでいた方が落ち着くというだけで、過去を知られでじまうごどには、何も言う気はないのでず。既に覚悟を決めだのでず」
「そう言われたって、見ていられないよ」
「俺は、姉さんが昔どんなことをしていても、嫌いになったりしないっすよ!!」
ミカが身を乗り出して、力強くそう言った。エリザベスは確かに、ミカに怖がられて嫌われることを懸念していたし、ミカからの信頼を失うことを恐れていた。それを考えると、ミカの声かけは的を射た慰めであったが、エリザベスだって、今更ミカが自分を怖がったりしないだろうことは、ちゃんと理解していた。エリザベスは、ミカの呼びかけに顔を上げ、小さく頷いてみせる。二人は互いに信頼しあった上で、それでも、エリザベスは膝を抱えて震えているのだ。
もしかしたら、ミカに過去を知られたくないとか、自分の過去の話を嫌っているとか、そのあたりの理由で沈んでいるわけではないのかもしれない。吸血鬼は思った。彼女がこの様子なのは、過去に何か重いトラウマを抱えているせいではないのか。
吸血鬼は、テーブルからティーカップを取って一口飲む。蜂蜜を入れた紅茶は、使役するコウモリたちに運ばせたものだ。
蜂蜜の甘さが舌の上に広がる。口内をくぐった紅茶は喉をしっとりと潤して、胸のあたりに暖かく染み渡った。
その一口の間にすばやく方策を考えた吸血鬼は、ティーカップを静かに置いた後、エリザベスに言う。
「わかった。私たちが目下知りたいのは、この日記を書いた者の正体と、館の謎だ。もっと詳しく言うなら、鍵が開いている二冊の共通点を調べ、開いていないもう二冊の日記を開ける方法が知りたい。ミカ、君の記憶を取り戻すためにね。だから、二冊の共通点が見受けられるところだけ、選んで全員に共有しよう。そうすれば、君は嫌な部分の記録について聞く必要はないし、ミカも、レディの過去について必要以上に知らなくて済む。それでいいね」
エリザベスとミカは、吸血鬼の提案に揃って頷いた。
改めて、吸血鬼は日記をめくり始める。
舞台は十六世紀英国、山と森林が多くを占める土地で領主を務めていた、無名の地方貴族の館である。




