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第五十二話 途切れた日記篇

「『知り合いが主人公』の恋愛小説を音読させられた。すごく辱められた気分だ」

「あんたが読むって言ったんでしょうが。……悪かったとは思いますけど」


 言いながら、ミカは吸血鬼の横から手を伸ばして、日記を幾ページかめくり戻した。最後の端的ながら静謐で、なぜだか不安を催す文章を後にし、セレーンが極夜の館で生活していた頃の日記まで遡る。そのページには、エリザベスにもらった真っ赤なドレスに身を包み、館の廊下を歩いている彼女の後ろ姿が、西洋画のような肉感あるグレーで描かれていた。

 セレーンがドレスを着るようになったのは、ほんの最近の話だ。それも、彼女が森の出口まで導かれ、吸い寄せられるように行方不明になったあの日から数えれば、一日ほどしか経たないほどの最近だ。


「この日記には、こんなに最近のことまで書かれているんすね」

「大広間にあった三冊の日記を書いたのは、私たち三人の誰でもないという話はしたけれど、このページを見るに、どうやら書き手はセレーンさんでもないようだね。彼女が館を出て行った日のことまで書かれている。あの日、セレーンさんは朝から誰かと共に過ごしていて、手ぶらで君と森を散策し、そのまま着の身着のままでいなくなった。日記を書いている暇なんてなかったよ」

「綺麗な絵だなあ」

「聞いてるかい? そうだ、レディ・エリザベス。君はセレーンさんの過去について多少なりとも話を聞いたことがあったみたいだけれど、この日記の内容は信用できるものなの、……? やだあなたちょっと、泣いてるの?」


 吸血鬼がエリザベスの方へ視線を向けてそう問えば、すぐさまベルベットのクッションが顔に向かって飛んできた。ソファーに置いてあったものだ。そういえば、日記を読んでいた最中――内容で言うと「セレーンが緑の人魚に唆されてユーラスを刺す決意をした」辺りから、エリザベスは吸血鬼の隣を離れてソファーの端に寄り、更にはソファーを降りて背凭れ裏の床に座り込んでいたのだった。精神を安定させるように抱きしめていたクッションを、恥ずかしさを誤魔化すために吸血鬼へ投げて寄越したのである。


「泣いでいるのか、でずっで!? ごんなの、泣かない方がおがじいじゃありまぜんが!! 何を二人じて冷静に考察じで、男の方には情緒どいうものがないんでずわ!!」


 エリザベスの元来のしわがれ声が、今は泣き過ぎて枯れたかのように聞こえる。ミカはソファーに膝をついて体を反転させ、彼女の様子を窺った。緑色のふわふわドレスの中に両足をひっこめて三角座りし、全身を震わせている。もし彼女が死んでいなかったら、その顔は涙と鼻水でびしょびしょに濡れていただろう。


「情緒がないとはひどい言い様だね。音読するのが恥ずかしかったって言ったじゃないか」

「ぞんなのはあなだの“今”の感情に過ぎまぜん。わだぐじが言っでいるのは、セレーンのごの“悲劇”に共感じないのかどいう話なのでず。真面な感性なら、そごに綴られでいる半生が彼女にどっで完全な幸せではなかっだことに気づけるでじょう。じがも、ぞの不幸は彼女が意図して引き起こじだものじゃございまぜん。彼女がぞの半生で大切に思い、信じできた人たちの様々な思惑が偶然に重なり合って生まれだ不幸なのでず。ああ神よ、いいえセレーン!! ごんな辛い記憶を勝手に覗き見てごめんなさい! 日記には、あなだが話じでぐれだ以上のことが書がれでいたのに、ぞれはづまり、あなだはわだぐじに知られだぐないごどを伏せて話じだはずなのに!!」

「わかった、わかった。つまりあれだね、日記には君が知らないことまで書かれていたけれど、その多くはセレーンさんから聞いていた話と食い違っていない。つまり、日記の内容は真実」

「ぞんな話はしでい゛ない゛!!!」

「ねえ、そんなに大騒ぎしなくていいからぁ。多分、セレーンさんが君に全てを話さなかったのは、知られたくないことがあったからじゃなくて、感情的に口に出しにくいことが多々あったからだと思うよ。日記には、セレーンさんが過去と向き合い、その罪を受け入れ、後ろめたさと和解する様子が記録されている。だから、今のセレーンさんはきっと、君が思うほど過去を引きずってはいないんだ。ただ、昔話として話すときにどこかしらを端折っただけで……口頭のやり取りであまり詳らかに言うのも不自然だしね」

「姉さん、ドレス汚れちゃいますよ。キッチンでも行って落ち着きましょう?」

「それならミカ。紅茶と蜂蜜を持ってきて。私の喉がやばい」

「コウモリに持ってこさせればいいじゃないすか……」


 文句を言いながらも、ミカはトレイに紅茶と蜂蜜を乗せて持ってくるだろうと、吸血鬼には予想できた。ミカは幼子のようにぐずるエリザベスの腕を引き、サロンを後にする。凡そ、エリザベスを落ち着かせるのに五分、紅茶を淹れるのに七分。移動を抜きにしてもそれくらいの時間はある。


 吸血鬼はセレーンの日記をテーブルに置き、エリザベスの本を開いた。エリザベスは自分の日記を心底から読まれたくなさそうにしていたのに、セレーンの日記の内容へ集中し始めてからは、その本を無防備にもテーブルへ放置していたのだ。

 裏表紙からページをめくり始める。最後のページには、案の定、セレーンの日記の最後と同じような文面が書かれていて、その前のページまで遡れば、日記が綴る日付と挿絵は、セレーンが森を出て行った直後の日で止まっている。館では日付や時間を正確に知る手段がないため、その記録が正解かまではわからないが、日記が綴るエピソードには、確かに心当たりがあった。


 その日は、セレーンがいなくなった直後――つまり、吸血鬼が焦って精神状態を悪くして、己が事ながら恥ずかしいほどミカとエリザベスの世話を焼きたがっていた時期のことである。あの頃は日中、二人に避けられていて、ミカとエリザベスだけの秘密のやり取りも多かったことだろう。この日記に書かれている通り、「エリザベスが喋れるようになった」日が、その時期に被っているのも頷ける。


 そう、エリザベスの日記は、「エリザベスが喋れるようになった日」までで記録が止まっているのだった。


 セレーンの日記は、彼女が館から出て行く瞬間まで、詳細に記録されている。しかし、あれから幾日か経った今までの間、エリザベスの記録は中途半端に止まり、ある日以降からプツンと途切れて、最後の定型のような文言に続いている。青年がお風呂で溺れて介抱したことも、それによって記憶が飛んだため散々世話を焼いたことも、三人で大広間に行って日記を見つけたことも書かれていない。


 日記を見つけた瞬間のことは、まあ、自然に考えれば書かれていなくともおかしくはないだろう。何せ、あれからは、吸血鬼たちがその日記を所持しているのだ。謎の記録者が隙を見計らって、日記の続きを書けるわけはない。


 しかし……、それは、この日記の記録がペンとインクを使うような普通の手段で描かれている場合の話である。日記の記録者が、ペンを握る指を持った、普通の体の持ち主であった場合の話。


 吸血鬼は瞳を横へずらし、彼自身の名前が書かれた日記へ目を向けた。

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