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第五十一話 セレーン、最後のページ篇

 しらばらくして、ハナダイはユーラスの死体を海に流した。黒い修道服は波の中で見え隠れしながら沖へ運ばれ、次第にその姿が完全に視界から消えると、ハナダイは自分の下半身を見下ろした。


 死体を海まで運んだ際に海水へ足を浸けたせいか、ハナダイの下半身は、人間の足から人魚の尾ひれに戻っていた。ピンク色の細かな鱗が生え揃う引き締まった肉の塊を見て、ハナダイは徐に短剣を振りかざした。


「あああああああっ!!!」


 ハナダイの心を、言いようもない感情が埋め尽くしていた。彼女は誰に訴えるでもない狂犬のような悲鳴を上げながら、先ほどユーラスを殺した短剣で自分の尾ひれを引き裂いた。


 ユーラスを殺すまで、ハナダイは確かに「人魚に戻りたい」と口にしていた。彼女自身にその時の記憶があったし、心からそう思っていたように思う。しかし、今やどうしてか、人魚という種に、人間に向けるものと同じくらいの憎しみを感じていた。いや、これは憎しみなのだろうか。とにかく、自分が今、人魚であることに耐えられなかったのだ。


 尾ひれについた傷から血が流れる。傷の中で短剣をグリグリと動かせば、傷はどんどん深くなった。傷に比して痛みはそれほど強くなく、むしろその痛みが、破裂しそうな感情を洗い流してくれているようで心地よいくらいだった。


 尾ひれが短剣の傷に沿って裂け、人間の足になった時、ハナダイは再び失望した。自分はユーラスを殺して、一体どんな能力を手に入れているのか。尾ひれを裂いたら人間になれる力だって? そんなもののためにユーラスを殺したのではない。あれ? そもそも、何のために彼を殺したんだっけ?


 何もかもがどうでもよくなって、ハナダイはやっと腰を上げた。ユーラスを探し、彼を見つけ、彼と取っ組みあっていた間は必死が過ぎて気にならなかったが、ハナダイの体は疲れ果てて重く、地面にまっすぐ立つなどとてもじゃないができなかった。背後の砂浜に手をつき、身を縮めるようにして起き上がったのだ。


 そして顔を上げ、後ろに広がる光景を見て、ハナダイの背筋は震えて凍りついた。目を見ひらいて、中途半端に立って四つん這いになった姿勢から、しばらく動くことができなくなった。


 砂浜に座って沖を眺めていた姿勢から振り返ったハナダイの目に映ったのは、そこにあるはずの岩壁などではなかった。


 その光景とは、ここにあるはずのない茨だらけの森であったのだ。


 ハナダイの前には黒色の金属でできた尖頭のバリケードがあって、その門の口はハナダイを誘うように開いていた。門の向こう側には、森の真ん中を突き抜ける一本の小道があった。


 ハナダイはその小道をジッと見て、その引力に抗うことなく歩みを進めた。歩みと言っても、彼女にはもう、足裏で地面を踏む力などない。地面で膝をすりむきながら這って森の中を進んだ。なぜ、そうしてまで森の中に入ったのか? 一つは、森がここに突然現れたということは、森がハナダイを中に誘う意思があろうと明らかだったからだ。もう一つは、彼女が自暴自棄だったから。人魚でも人間でもいたくない。なら、このまま、得体の知れない茨の森の中で、野垂れ死にたかった。


 実際、森の奥に着く頃には彼女の体力は尽き果て、望み通り野垂れ死ぬのも時間の問題であった。人間の体を維持する力も失われ、ハナダイは再び人魚の姿に戻った。意識を失う最後の瞬間に見たのは、眼前にそびえ立つ見たこともない洋館で、ハナダイはそこの玄関階段に身を投げ出した。


 館の前に横たわる人魚を助けたのは、館の周囲を掃除していたゾンビ嬢・エリザベスであった。エリザベスは人魚を見て少し驚き、ハナダイの体を横抱きにして館の中へ入った。


§


 それからのハナダイの生活は非常に穏やかなものだった。極夜の館の大水槽に入れられて、時々ガラス越しにエリザベスとおしゃべりするような日常だった。


 ハナダイは、人魚の姿で極夜の館に辿りついた。そのため、館では人間になれる能力などない、ただの人魚として振舞った。つまり、人間に焦がれて人間を殺した、暗い過去など無かったことにしたのだ。それでも、「人魚でも人間でもいたくない」という思いはずっと彼女の中にあって、ジュクジュクと膿んだ怪我のように彼女を蝕んでいた。


 日常が少し賑やかになったのは、青年・ミカが来てからのことだ。


 日記はハナダイの日常をつぶつぶと書き記していた。その中で、ハナダイの心の中はだんだんと過去を受け入れていったようだった。


 ハナダイは、青年、ゾンビ嬢、吸血鬼という極夜の館の住人を、次第に家族のように大事に思うようになった。それからは、過去の最悪な記憶に想いを馳せる余裕も生まれた。彼女は名を訊かれ「セレーン」と名乗れるようになった。人前で人間の姿を取れるようになった。彼女は、ユーラスを殺した動機が「全く自分の中の意思ではなかった」ことに気づき、狂気と錯乱と誰かしらの思惑が混じり合ったあの行為を、「罪である」と認めるようになった。


§


 日記の最後のページには、こう書かれている。




 罪を認め、人間を殺すほどに嫌がった「人間としての生」を送る決意をした。


 それは彼女の贖罪たりえる。


 人魚セレーンは、人間を殺したことを罪と覚え、神に誓って、再びは犯さないだろう。


もう彼女は人間だ。囚われる必要はない。

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