第五十話 凄愴の裸婦篇――その三
ユーラスはハナダイを、二人が待ち合わせていたあの砂浜まで連れて行くつもりだった。しかし、その前に、ハナダイがユーラスの手首を振りほどき、彼にとびかかって馬乗りになったのだ。その場所は雑木林の出口にあたり、背後には砂浜へ続く高い崖が控えている。ユーラスは頭を崖に向ける形で地面に倒れ、襲いかかってくる短剣を必死に両手で受け止めた。
「セレーン!」
「その名前で呼ばないで!!」
ハナダイは甲高い声で叫んだ。その声は天高く響き渡り、夜空の少ない星の中へ消えていった。
あっけにとられたユーラスは、逆に頭が冷静になってきていた。彼女がどうしてこんな暴挙に出たのか、どうして人間の姿になっているのか、慎重に尋ねようと試みる。
「……なんでだ? 俺が約束を破ったから起こってるんだろう? そうじゃないのか?」
「そう思うんなら謝ってよ!」
セレーンは掴まれた手首をまた力いっぱいに引き戻し、そのままダランと体側に降ろした。
よく見れば、彼女の目は充血して、瞼やほうれい線の部分には、強張って消えなくなった皺が寄っている。彼女が正気でないことは既にわかっていたことだが、この顔を見れば、恐ろしさやそれに準ずる軽蔑などよりも、悲惨で気の毒に思う気持ちの方が勝った。
何を気の毒などと。
彼女をこんな風にしたのは、ユーラス、お前だというのに。
……ユーラスは内心で自分に向かってそう毒吐いた。
「ごめん。俺が悪かった」
ユーラスは本心から謝った。言い訳など余計なものは何も必要ない。彼が今すべきことは、ただ素直に謝ることだけだと思った。
しかし、ユーラスからの謝罪の言葉を聞くと、ハナダイは一層高く叫んで、頭がちぎれるほど激しく首を横に振った。
「ちがうちがうちがう!!! ユーラスは何も悪くない!!! わたし!! わたしが悪いの!!! 全部わたしが勝手にやったことなの!!」
人魚語と人間の言葉が入り交じり、叫びはユーラスをも再び混乱させた。
「何が違うっていうんだ!」
「わたしは!!! 海から出たかっただけなの!!!」
ハナダイの人魚は両目からボロボロと涙をこぼしていた。泣きたいのは、それを見ているユーラスも同じであった。
「人魚はみんな恋が好きなんだ!!! 人間に恋をして泡になった人魚の話は、馬鹿な教訓話だって言われるけど、ほんとはみんな、あの話が大好きで、ちょっと憧れているんだ! みんな、あの馬鹿みたいに狂うほどの恋がしたいと思いながら、大人になっていったんだ! だけどね、わたしは違うの! わたしは他の人魚みたいに思えないの! 心からあの伝説の人魚を馬鹿だと思ってたんだよ! わけのわからない感情に流されてさあ、結局一人で死んでしまうなんて……世界中探してもこれほどの馬鹿はいないよね!!! わたしは、わたしの考えが一番正しいと思ってるし、大人の人魚も、この考えが正しいって教える!
だけど本当は違うんだ、この伝説の人魚のことを、表では馬鹿にしておきながら、内心では『素敵だな』って思える、それが本当の人魚っていう種族なんだ!
わたしには人魚らしさがどこにもない、他の子とは違う! 海の中にわたしの居場所なんてなかったんだよ!!」
ハナダイは続ける。
「だからわたしは……人間になりたかったんだ……。あんたと出会えてラッキーだった……」
ハナダイは短剣をユーラスの顔の横に突き刺し、その短剣の柄に縋るように頭垂れた。ハナダイの赤い髪のベールに、ユーラスの震える顔が隠される。
「ユーラスのことはね、好きだったんだと思うよ」
小さく囁かれた言葉に、ユーラスは軽く瞑目した。種族の違いは、互いが互いへ一方通行の想いを抱いていると思い込ませていた。その誤解が今、ユーラスの側において解けたのだ。
「セレーン、俺は――」
「でもわたしがどれだけあんたのために頑張っても、あんたはわたしと生きてはくれない。だったら、わたしはあんたを殺して、人魚の世界に戻って生きる!」
「ま、待て!!」
再び振りかざされた短剣を、ユーラスは体を捻って避けた。追撃してくる剣先を、二転、三転と地面を転がりながら避け、必死に逃げながら、彼はハナダイに向けて言葉を重ねた。
「なんで何も聞かずに決めつけるんだ。俺はずっと、お前の方こそ、俺になんか興味ないだろうって思ってたんだぞ。お前がいいって言うんなら、俺は身分なんか捨てて一緒に暮らせる! 確かに俺は修道士だけど、絵の心得だってあるし、修道院では絵描きとしての仕事の方が多かったくらいだ。半島を出て、お前と一緒に生きていける」
「何言ってんの? 意味わかんない!」
ハナダイは短剣を大きく一振りした。その一閃はユーラスが彼女を制止しようと掲げた腕にかすり、一筋の血を流させる。
「ユーラス!! あんたが何を考えようとね、あんたなんか所詮人間だってこと、わたしはちゃんと知ってるんだから!!」
ハナダイはユーラス目掛けて走り、右手で短剣を振り上げ、左手で彼の肩先を抑えた。しかし、ユーラスの肩は運悪く崖の縁にまで達しており、ハナダイに押されたことで重心が崖下へ向けて傾き始める。
「! セレーンッ……」
「そのセレーンって名前の由来も知ってる。あんたは知らないだろうけどね、人魚とセイレーンは違う生き物なの! 人間は知らないだろうけどね! あああああ!!! あああああくそがッ!! 人間が!!! よくもわたしにセイレーンみたいな名前つけてやがってよ!!」
ハナダイが勢い込んだ衝撃で、ついにユーラスの体は崖を越え、頭から落下した。彼の上にまたがっていたハナダイも、共に崖下へ落ちていく。二人分の悲鳴が三方の崖壁に反響した。
「……」
落下の衝撃があってから、ハナダイは目を開けた。幸い、下の砂浜でいくらか衝撃が吸収され、彼女の体に大事はない。ハナダイは、ユーラスの体の上に、うつ伏せになって倒れていた。彼の胸に手をついて上体を起こし、ハナダイは最初に目にしたのは、黒い修道服の心臓あたりに深々と刺さった短剣だった。
「……」
それを見ても、ハナダイは何も言わなかった。言えなかったわけではない。言わなかったのだ。大丈夫?とも、死んだ?とも言わなかった。ただ、濡れた頬を放置し、真っ赤になった目でジッと、その光景を見つめていた。短剣の刃は、ユーラスの体に最後まで刺さって、彼女の目には紫色の柄しか映らなかった。
短剣が刺さっても尚、ユーラスにはまだ息があった。ただし、すぐにでも消えてしまうだろう弱弱しい息だ。ユーラスは溺れた人が水を吐くように口から血を吐き出し、がらがらにかすれた声でハナダイに言った。
「ちがう……セレーンの名は、セイレーンから取ったんじゃない」
「……え?」
ハナダイは、やっと一言、まともそうな美しい声を出した。
ユーラスはゆっくりと語る。
「俺の故郷には、月の女神がいる。女神の名は、セレネー……君と初めて会ったとき、月に照らされた君が、すごく綺麗だったから……」
その言葉を最後に、ユーラスは何もしゃべらなくなった。彼の瞳はハナダイを見つめて、それからピクリと瞬きすることも、彼女の手を撫でることもなくなった。
銀色の月明かりは、二人を煌々と照らし出していた。ユーラスの死体は、ハナダイの上半身に光を遮られて影になっている。しかし、ユーラスの目から彼女を見れば、その白く滑らかな四肢とまっすぐ垂れ下がる赤い髪、やや冷たく尖った印象だが、非常に整って愛らしい顔――彼が生まれて初めて愛した「セレーン」という女性が、清らかな光に包まれ、まさに女神のように輝いて見えたことだろう。
ハナダイは短剣をユーラスの体から引き抜いた。それから、彼の体に空いた穴に向けて、再びその刃を刺し入れた。
ハナダイはまた短剣を抜き、またその剣でユーラスの胸を刺した。
また短剣を抜いた。そして刺した。抜いて、刺して、刺して。刺して刺して刺して刺して刺して刺して。
ハナダイの人魚の目は真っ赤になって、瞬き一つしなかった。肉が裂ける音を何度も何度も聞きながら、手を震わせ体を震わせ、ユーユー、ユーユーと切なく響く哀れな声で、ハナダイは誰に言うでもなく呟いていた。
「だから何。だから何だから何だから何? わたしは恋を知った。恋を知ったんだ。だから人魚に戻れるし、人魚の間で生きていける。もう人間になる必要ないんだ。海に戻る。海に戻る。わたしは、あんたを刺して海に戻る」
ユー、ユー、ユー。悲壮な人魚の鳴き声は、ユーラス、ユーラス、ユーラスと、大好きだった人間の名前を呼んでいるように聞こえた。




