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第五十話 凄愴の裸婦篇――その二

 人の群れだ。ハナダイの人魚の目の前に現れたのは、沢山の人間の群れであった。整然と利口に列を成す彼らは例外なく雄で、ハナダイの目には、どれもこれもが同じ顔のように見えていた。


 どれも同じ顔、同じ生物だ。どれも、「ユーラス以外」という、同じ生物。


 ハナダイが林の中から姿を現すと、人間たちはざわざわと騒ぎ立て、中には悲鳴を上げる者もいた。ハナダイはユーラスから人間の言葉を教わったが、複数人に一斉に早口で喋られると、彼らが何と言っているのか正確にはわからなかった。ただ、何かよくない風に自分を呼んでいることだけは、雰囲気で感じとった。


 ユーラス、ユーラスどこ。

 ユーラス、あんたもこの人間たちの中で生きていて、この人間たちと同じ生き物なんだね。


 ハナダイは、ユーラスが半島のどの修道院に所属しており、現在どこで何をしているのか、さっぱり知らなかった。海岸からここへ上ってきたのは単に階段から近かったからで、ここの修道士たちの前に現れたのも偶然、ハナダイは「ユーラスを探す」という強い意志だけで、あてずっぽうにフラフラと歩いていたのだ。


「セレーン!!」


 そこに、一人の修道士が他の人間をかき分けて、ハナダイと対峙する道まで躍り出てきた。黒髪の癖毛に、目つきの悪い三白眼、全身を覆うのは黒い修道服。ユーラスだ。


「ユーラス!」

「ユーラス!?」


 ハナダイが彼に叫ぶように呼び掛けたのと、他の修道士たちが驚きに彼を呼んだのとは全くの同時であった。ユーラスはびくりとして後ろを振り返り、修道院長の顔を見ると苦しげな顔をして固まった。

 修道院長の老父は顔の皺を下方へ伸ばして、困惑した顔でユーラスに尋ねた。


「ユーラス、彼女を知っているのか? さっき彼女が呼んだのは、ユーラス、お前の名前なのか?」


 その問いに、ユーラスはすぐには答えられなかった。神の御前でさえ口ごもるのだ。ハナダイのことをどう説明すればいいのか、彼にはさっぱりわからず、けれども、その場から一歩動いて逃げ出すこともできずにいた。


 普段から気が強く、心中の思いや考えを包み隠さず人に進言して発散するユーラスだ。彼が戸惑い口ごもる姿は、修道院長だけでなく、彼をよく知るどの修道士たちにも不安を抱かせた。


 ユーラスは先に、ハナダイへ何事か尋ねることに決めた。ユーラスは改めてハナダイに向き直り、そこでようやく、彼女の下半身が様変わりしていることに気が付いた。


「お前、どうしたんだその足?」

「ユーラス、ユーラス、いた……」


 ハナダイはユーラスの言葉が聞こえていないかのように朦朧とつぶやきながら、一歩一歩、ゆっくりとユーラスに近づいてきた。明らかに様子がおかしい彼女を観察し、そのさらけ出された人間の女の裸体に顔を青くして目を逸らしたところで、彼女がだらんと下げた手に、一本の短剣が握られているのを見る。


「なんで……?」


 ユーラスは、頭をガンと殴られたように感じた。ハナダイを注視していた視界がものすごい勢いで後ろに引いて行って、視野に入るもの全てが感情のない景色図のように見え始めた。土の道、緑、真っ黒な空、海。その中でユラユラと今にも倒れそうに揺れる白い体は、今も一歩一歩ユーラスに近づきながら、譫言のように何やら呟いている。


「ユーラス、なんで、来てくれなかったの……?」


 その瞬間、ユーラスは喉の奥で声にならない悲鳴を上げた。確信したのだ。彼女が、自分をその短剣で刺しに来たのだということを。ユーラスには、彼女へセレーンと呼びかける余裕など残っていなかった。あんなに美しかった人魚が、今や、ただの一匹の獰猛な怪物に見える。彼女は、また会おうという約束を破った自分を恨んで殺しに来たのだ。ユーラスには、その考えが、かなりの信ぴょう性と可能性のある正解に思えてならなかった。だって、ユーラスは祭儀の間中、ずっと後ろめたさに囚われていたのだ。彼女と自分の間に悪いことが起こったとすれば、その最悪の原因は自分にあることを、ユーラスはちゃんと自覚している。


 ハナダイは気力的に限界を迎え、一種のトランス状態に入っていた。彼女の目には今、ユーラスの瞳しか映っておらず、この世の音は何も聞こえてこない。

 ハナダイは顔を上げ、かすれた声で、何か懇願するように言った。


「ユーラス、会いたくて、わたし、人間になったよ……」


 その言葉とは裏腹に、ハナダイは右手を音もなく持ち上げ、短剣の切っ先をユーラスに向ける。ユーラスはハナダイの一連の言動を見て愕然とし、同時に衝動的な責任感から、血の巡りが止まるほどの重力を感じた。彼女を傷つけただけでなく、種族の生を捨てさせたのは紛れもなく自分であるのだ。


 ユーラスの背後に、ノエが近づいてきた。


「彼女とはどこで会ったんだ? この半島は女人禁制だから、きっと君が島外に逃げていた時に出会ったんだろう。何があったか知らないが、どうして……」

「セレーンをここから追い出すんですか!?」


 ユーラスは勢いよく振り返り、正面からノエを見上げ、ハナダイに完全に背を向けた。ユーラスのその動きに、ハナダイが目を見開き、口をわなわなと震わせたことは、ユーラス含め、修道士の内の誰も見ていなかった。


 ノエがユーラスの名を呼ぶ。しかし、ユーラスはノエに何も語らせたくないかのようにまくし立てた。


「違うんです! 彼女は元々人魚で、俺と出会ったときはまだ、下半身が魚だったんです! それで、俺が乗った小舟を引いて海を渡ってくれて、隠れられる小島に連れて行ってくれた……俺が半島から逃げている間、食べ物をくれたのだってセレーンだ! あんた人魚にも立ち入りを禁止するのか!? あれは女人か!? 違うだろ!」


 ノエはユーラスに気圧されながら、目を一瞬泳がせて首を横に振った。


「あの風体だ、何か並々ならぬ事情があるんだろう。今すぐ追い出すなんてことはしないよ。一度修道院で保護しよう……それよりユーラス、何を言ってるんだ。彼女が人魚だなんて……」


 困惑のまま再び事情を問おうとしたとき、ふいにノエはユーラスの背後に目を遣って息を止め、彼の肩を横に押して裸体の女の前に飛び出した。


「ぐッ……!」


 ノエの短い呻き声を聞いて、突き飛ばされたユーラスが訳の分からぬまま振り返る。そこで彼が見たのは、紫色の柄の先が奥まで体内に突き刺さり、今まさに膝を折って崩れ落ちるノエの姿だった。


「ノエ司祭!」


 ユーラスと他の修道士たちは同時にノエの名を叫んだが、ノエに駆け寄ったのは修道院長の傍らで震えながら様子を見守っていた修道士たちの方が先だった。ユーラスは、起こった出来事の衝撃に足が震えて動けなくなり、皆に囲まれて介抱をうけるノエを人と人の隙間から覗き見た。ノエは心臓のある胸部を一突きされて、そこから大量の血を流し、荒く上下する肩の上でぐったりと垂れた顔は血の気が引いて、人生で見たことがないほど青白くなっていた。


 ハナダイはノエから短剣を抜き、両手で柄を握って、まだ体の前に構えたままだった。手がわずかに震えているが、それは人を刺したことへの後悔や罪悪感からのものではない。その獰猛な表情から、単に興奮からくる震えを抑えられないのだとわかった。


 ハナダイは唸り声のように「ユー。ユー」と二回鳴く。人間で言うなら、「クソッ、クソッ」というような悪態だ。ハナダイの頭の中は、もうずっと真っ白で、目の前で起こった出来事なんて「自分対その他の様子」でしかなく、偶然の自然現象みたいなものが、視神経に繋がらない網膜に反射しているようであった。


「クソッ、ユーラス、いなくなっちゃった。当たらなかった……!」


 ユーラスはハッとして周囲を見渡した。ノエの介抱に加わっていない後方の修道士たちが、ユーラスを遠巻きに見て顔をこわばらせている。その信じられないものを見るような目は、憎しみからくるのか、恐れからくるのか、ユーラスをここから排斥する意志を含んでいた。修道院長さえもが、わずかながら似たような表情を覗かせていたのだ。


 考えてみずとも当然のことだった。ハナダイの人魚はひたすらにユーラスの名を呼んでいる。今、ノエが彼女に刺されたのは、短剣を持つハナダイに背を向けていたユーラスを庇ったからで、本来なら、そこで倒れているべきなのはユーラスであった。状況を客観的に見ている修道士たちの目には、ユーラスのことが次のように映って仕方なかったーー半島を出て身を隠している間、戒律に背いて女性と関係を持ち、痴情のもつれでも起こして、あろうことか「彼女は人魚だ」などとわけのわからない言い訳を並べ立てようとした不届き者と。


「罰するなら、罰するなら俺がなんとかします」


 激しい狼狽えを隠すようにきつい口調で、そう言葉が出た。「罰するなら」というけれど、ハナダイを罰しようというのか、ユーラス自身を罰しようというのか、それは発言した彼自身にもさっぱりわからなかった。


 ユーラスは弾かれるようにハナダイの方へ走り出した。修道院長が驚いて止める声も聞かず、まっすぐ彼女に手を伸ばす。ハナダイは、都合よく向かってくるユーラスに短剣を構えたが、ユーラスは刺されるより先にその手首を強い力で捕まえて、そのまま林の向こう側に走りぬけ、彼女を海岸の方へ連れて行った。

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