第五十話 凄愴の裸婦篇――その一
ハナダイを諭すオトメベラは、こうなった原因が、まるで自分にあるかのように語っていた。ハナダイが薬を飲んで人間になったことは、ハナダイ自身の選択だし、オトメベラには何の責任もない。優しい彼女が、あんな風に自分を責めるところなど、見ていられなかった。
ハナダイは崖の上に登る階段を見上げて、一度その場に腰を下ろした。石造りの階段は夜の潮風にぐっと冷えている。おまけに、長年、野外の環境にさらされてきたせいで表面は劣化しざらついており、ハナダイの尻に細かく傷をつける。体の芯から冷える思いがした。実際、ハナダイの体は冷え切っていたが、実際の冷え以上に、心の中が冷えていた。
ユーラスを殺して、海に帰ること。ユーラスを殺すこと。ユーラスを。ああ、それ以上考えたくなかった。行動の意味も、行動を起こした後のことも、行動そのものをどう起こすのかだって、ぽんと放りなげて忘れてしまいたい。そのことについて脳を侵食されたくなかった。彼について具体的に考えるほどに心が蝕まれて、あまりにも息苦しくなる。頭の中がどんよりと重い闇に覆われて、視覚器官や筋肉の神経まで侵されて、足どころか指先一本も動かなくなってしまうのだ。もう、成り行きと勢いに任せてやってしまわなければ、ハナダイはオトメベラと約束した仕事を成し遂げることはできないだろう。
なぜ、そんなに無理をして、海に帰ろうとするのか? この体は、こんなにもユーラスを殺すことを拒んでいるのだ。彼を殺そうというのは、ハナダイの本心ではない。ハナダイ自身が、本当に選びたい選択肢じゃないだろう? それがどうしてわからない?
違うのだ。一時は心を通わせたと思えた生き物を、自らの手で殺そうというのだから、戸惑われて当然なのだ。そうではなく、本当にハナダイ自身のためになる選択肢はどれなのかという話なのである。確かに感情に任せれば、このままユーラスを生かし、たとえ二人一緒に幸せになれずとも、愚かな人魚が勝手に死ねばそれでいいと思える。しかし、親友たるオトメベラが、それは間違っていると言ってくれた。正しい、第三者からの理性的な視点で、オトメベラを正しい方向に導いてくれたのだ。そして、少し理性的な頭で考えれば、ハナダイ自身にとっても、正しい選択肢がどちらであるのかなど、一目瞭然に見えた。
正しい道は、いつだって辛いものだ。感情は理性よりも頭が悪いのだ。だから、そう、ハナダイは感情を押し殺して、次に待つ苦行に備えていた。
ハナダイにとって、それは最早、神に課された試練も同然だった。これまで、自らの心に向き合い、その意思を大事に見極めてきたハナダイは、今や脅迫的な使命感に雁字搦めにされていた。
§
太陽が完全に沈み、辺りが闇に包まれた深夜、半島の修道士たちは復活大祭の早課を始めていた。明かりと言えば銀色の月明かりと小さな星の輝きに限られる静謐な空気の中で、灯篭を先頭に大きな十字架とイコンを掲げ、修道士たちは列を成して、それぞれの修道院で管轄する聖堂の周りを行進するのだ。
ユーラスが所属する修道院はどちらかといえば首都に近いが、森閑な海岸沿いの道路の傍にある、比較的歴史の新しい修道院であった。修道士の数は二十人ほどで、全員がこの十字行に参加している。先頭に近いところを行く修道士はクロブークを被っており、その中には高位の修道司祭である修道院長と、彼を補佐するまだ若い司祭、ノエの姿があり、ユーラスが含まれる列の後方の修道士たちを率いている。
ユーラスは列の最後尾におり、両手で燭台を持ち静々と他の修道士の後をついて回っていた。視界が悪い中、足元を見ることはせず、ただひたすら目の前で揺れる蝋燭の炎を見ていた。その仕草に、あまり意味はない。彼の頭の中からは、先ほど十字行が始まる直前にコソコソと祭事を抜け出し、チラと覗いて逃げかえってきた、あの海岸の砂浜の様子がこびりついて離れなかった。
――ユーラス!!
――ユーラスなの!? わたし! セレーンだよ!
彼女が自分を呼ぶ声は、崖の上から確かに聞いていた。月が岩肌をくり抜くようにして、そこだけぽっかり照らし出した砂浜、その中心から少し視線を上げて、海と岸壁の境のところを見れば、岸壁の陰に、元気よく身を乗り出してこちらを見るセレーンの姿があった。彼女の下半身は岸壁に隠れてこちらからは見えず、上半身だけ露出された姿は、最早、裸体の人間の女性と変わらなかった。
女人禁制の聖域に、裸の女が現れた。
何を言う、彼女は人魚だ。奇々怪々魑魅魍魎の類だろうが。彼女に性別などはなく、人間の信仰者の掟など関係のない場所に生きている。
馬鹿をぬかせ、お前は、その人魚のことを、女だと思ってみているくせに。
ユーラスは怖くなって、崖の上から一歩も足が動かなかった。それから、姿の見えないユーラスを探しに来たノエに見つかって、ユーラスは一目散に彼の元に駆けだし、「気分が悪くなったんだ」などと言い分けして再び祭事に戻ったのだ。
セレーンは、逃げかえった自分を見て何を思っただろう。今、どこで何をしているのだろうか。まさか、今もまだ砂浜で、自分が会いに来るのを待っているのだろうか。もし、本当に彼女が自分を待っていたら、そのとき、俺はどうしたら。
いいや、そんなはずはない。こんなにも情けない人間の男を、あんなに美しいハナダイの人魚がわざわざ待っているわけがない。彼女は人魚、自分は人間なのだ。美しい種族の彼女には、自分にこだわる必要など何もないはずなのだ。きっとすぐに失望してしまって、あの緑の人魚と一緒に海中へ帰ったに違いない。
ユーラスはこんな風に思考を巡らしたが、思いつく考えは全て、自分に都合がいいだけの戯言に過ぎなかった。実際には、ユーラスのことを情けなく思って失望しているのはユーラス自身であるし、彼のことを彼女がどうでもよく思っているなんて、単なるユーラスの妄想なのだ。彼は長年、修道士としてこの半島に暮らし、もう何年も女性を見たことがなかったし、女性に対して特別な感情を抱く経験もなかった。普段は修道士の割には荒くれもののような口調と仕草をして、得意なことは絵描き、強いこだわりを持つものも絵描きのみであった。
ユーラスには、都合のいい妄想を根拠にして、彼女から逃げる以外の選択肢が思いつかなかったのも、致し方ないものだった。
十字行の列の先頭が聖堂の入り口にまで回ってきて、一周を回り終えたところ、聖堂に入ろうとする列の先頭を引き留めるように、若い男の声が「何だあれ?」とつぶやいた。
厳かな静寂を破ったその声は、修道院長の後ろでイコンを掲げ持っていた修道士が発したものだった。非難するような視線を周りから受け、男は瞬時に口を噤んだが、その目はぐいっと右を向いて、汗を垂らしながら海岸方面を見ていた。
聖堂がある場所から、道を挟んで林があり、その林の向こう側には切り立った崖の海岸がある。豊かな照葉樹は潮風に晒されながら段々になった過酷な土地を覆っているが、その木々の間にふと、何やら白いものが見えた気がした。
まだ聖堂の側壁あたりに居たユーラスは、前方が俄かに騒ぎ始めるのに気付いてやっと顔をあげ、怪訝に思って顔をしかめていた。それも束の間、騒ぎの声が徐々に大きくなって、「女だ!!」「女がいる!!! なぜだ!!!」「裸の女だ!!!」という混乱をはっきりと耳にするや否や、その場に燭台を取り落とし、修道士の列を搔き分けて列の先頭まで躍り出た。




