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第四十九話 名前の由来篇

 月明かりが占領する白浜に、たった一人、柔肌を惜しみなくさらけ出した女性が、ゆっくりと、ゆっくりとその場に立ち上がった。白き密室のような空間に、赤い髪がくっきりと浮き上がっている。足裏を冷たい砂につけて膝を伸ばそうとするも、体重を自身の体だけで支える感覚に慣れず、すぐにその場に崩れ落ちてしまう。苦痛に歪んだ顔が、まっすぐ垂れた髪に隠れた。

 両手をついて体勢を整え、膝立ちになって崖の上を見上げる。膝に砂が刺さる痛みは気にならなかった。崖の上からこちらを覗く者は、現在、誰一人としていない。しかし、ハナダイの人魚は、自ら陸上を移動して、会うべき人を探すための足を手に入れた。


 そこへ、背後の海から激しい水音が聞こえた。振り返ると、すぐそこの波打ち際に、オトメベラが身を投げ出してこちらを見ていた。先の音は、オトメベラが海から飛び出して砂浜に勢いよく突っ込んできた音だったのだ。


「オトメベラ? なんで?」


 オトメベラは緑色の緩やかに波打った髪を後ろに掻き揚げ、人間になったハナダイを下から見上げると、「遅かったか……!」と悔しそうに吐き捨てた。


「遅かったって何?」

「もう薬を飲んじまってた。俺がヤケになってお前にやらせたから」

「ヤケって何?」

「違う、あの時は本心だったんだ!」

「待って、薬を飲んじゃいけなかったの!? 落ち着いてあんたらしくないじゃない!」


 ハナダイが怒鳴ると、オトメベラは、ようやく一度言葉を切って、ふっと鼓動を整え始めた。海の深い所から、ここまで必死で泳いできたのだろう。オトメベラは身をひるがえして海の中に潜り、再び顔を出した時には、一言の軽い冗談も許されないほどの真剣な顔で、ハナダイをジッと正面から睨みつけた。


「ハナダイの。お前、セレーンって名前の意味、あの男から聞いてんのか」


§


「そういえば、ハナちゃんの名前の由来って、オトメちゃんは知ってるの?」


 その質問は、元は海の魔女からオトメベラに向けて投げかけられたものだった。


 オトメベラはハナダイのことが心の底から好きだった。きっと雌雄の間では、愛していると容易に言ってしまえるほど、彼女は彼女のことが大好きだった。けれど、そんな人魚がずっと傍らにいたとしても、ハナダイが海を生きにくいと思っていて、退屈だと思っていて、本来生きるべき場所でそんな気持ちを抱くことに、罪悪感に似た疎外感を感じていて、そして、陸に憧れていた。


 そのことを知っていたから、オトメベラは、ハナダイに、このユーラスとの出会いというチャンスを逃させるまいと、彼女の背中を押したのだ。とはいえ、それは、オトメベラにとっては、一から十まで笑顔でいられるような行動ではなく、誰も来ないような海中の暗所に涙を流しに行って、なんとか気を持ち直した所で、さてハナダイはどうしたかと、海の魔女の家に様子を窺いに行ったところだった。


「なんだ。セレーンの意味って。俺は聞いてねえけど」


 オトメベラは首を傾げた。その時、ハナダイは既に薬をもらって魔女の家を去ってしまっていて、魔女の頬にはうっすらと、一筋だけの涙の後が見えていた。


「そ、そうなんだ……。じゃあ、誰も聞いてないんだね。人魚には名前を付ける文化がないから、あまり、意味とか、気にならないのかな……」


 オトメベラだけでなく、カサゴ少年も怪訝な顔をしていた。


「なんだよ。何か悪い意味なのか?」

「悪い意味じゃないと思うよ! 本当の意味は、名づけた本人にしかわからないと思うし……。でも、ちょっと、人間らしい名づけ方だなって思っただけなんだ。人間らしくて、異種婚っぽくて非常に興奮する……」

「何わけわかんないこと言ってんだ。セレーンって、結局どういう意味だってんだよ」

「うーん。わたしの考えだよ。そうじゃないかなって感じで……言っても怒らないでよ」


 魔女は壁際で布に包まり、膝を抱えて座っていた。


「セレーンって、セイレーンの人間の発音に似てるんだよね。人間って、人魚のことをセイレーンだと思いがちなことは知ってるでしょ? ハナちゃんを見て、セイレーンを少しモジった名前にしたのかなって思うと、異種婚ぽくて可愛いでしょ……」


 ハナちゃん、陸で幸せな結婚生活を送れるといいなあ。その前に、相手は修道士だから、駆け落ちかなあ。そんな間の抜けた魔女の言葉を待たず、オトメベラは魔女の家の床に体を乗り上げた。


「ひいいいい……!!!」


 海の魔女は思い出した。彼女が、目の前の緑色の人魚が、このエーゲ海では有名な不良娘であることを。狭い海を好き勝手泳ぎ周り、必要があれば人に手を上げることすら厭わない乱暴者であるということを。


「おいてめえ、なんでそれをもっと早く言わない!!」


 オトメベラは魔女の胸倉をつかみ上げていた。人魚たちは、カサゴ少年のように固い鱗を持っていない場合、肌が傷つくことを恐れて、岩の床の上を這うような真似は好まない。だから、壁際にいた魔女の所までオトメベラが瞬時に移動してきて、その上、乱暴まで働いていることは、魔女にとっては予想だにしないことであった。


「だってだって、聞かれなかったし!! ハナちゃんがセレーンって名前気に入ってたから、意味も知ってるものだと思ってたし!! でもカサゴ少年に『名前の由来って何かな?』って聞いたら、ピンと来てなかったから、あれー? って思ってオトメちゃんにも聞いたんだし……!!」

「わかるわけねえだろセイレーンは人魚語で『ユユユ』なんだぞ!!??」

「殴らないでーー!!!」

「もっと早く話題に出しとけよ!!」

「えー! 何? かわいいエピソードじゃん! 何がそんなに問題なの!?」


 その時、海の魔女の袖を引っ張ったのは、強張った表情のカサゴ少年だった。


「魔女さま。人魚にとって、セイレーンに間違えられるのは地雷なんです」


§


 あの時の、海の魔女の困惑した顔は忘れない。人間は人間ただ一つの種族だから、人間と他生物の合いの子として、互いに間違えられるセイレーンと人魚の気持ち、その文化は、根本的に理解できないのかもしれなかった。


 しかし、ハナダイは人魚である。ハナダイに恐怖を感じさせることにかけて、この「セレーンの名前の由来」という話の効果は覿面だった。彼女が、一体何に対して恐怖しているのか。

 急激に冷え切った、ユーラスと築ける幸せの可能性である。


 ハナダイは目を見開いて、オトメベラの次の言葉を待っていた。オトメベラは罪の意識で、酷い汗をかいていた。


「ハナダイの。無責任にお前の背中の押したのは俺だ。その上、更に無責任だけど、本当に謝らないといけないけど、さっきの言葉、撤回させてくれ。お前とあの男は、確かに傍から見れば、幸せになれる予感がした。でもな、それはお前が、あいつの本質を知らなかったからだ。いくら優しい奴に見えて、どれだけモノを知っていても、あいつは所詮人間なんだ。人魚をどう見ているのかは、あいつだって他の人間と一緒だったんだ。あのユーラスとかいう男は、人魚とセイレーンの区別もついていない。それだけじゃない。とんでもねえ、お前に、セイレーンからとった名前を、悪びれもせずにつけて、何も知らないお前に名乗らせた。なあ、もう一度よく考えてみてくれよ。俺は考えたぞ。お前も逃げずによく考えてくれよ! 人魚と人間が、本当に幸せに結ばれると思うか!?」

「でも、ユーラスだって、知らなかっただけでしょ。人魚とセイレーンが違うこと、説明したら、また別の名前をつけてくれるかも」

「お前、人魚としての尊厳を傷つけられたってことがわかってるのか!? そんな風に許せていいものじゃねえだろ!」


 オトメベラの強い語気が、ハナダイを圧倒していた。ハナダイの人間になってむき出しになった下半身に、低く大きく轟く声が恐ろしく響いた。


「それに、いくら説明しなおしたところで、ユーラスにとってお前は、ずっと『元セレーン』のままなんだ。あのカサゴの坊っちゃんだって、これを知ったら怯えて言葉も出てなかった。ガキにもわかることだ、わかるだろ、俺が言いたいこと。結論を俺に言わせないで。お前の口から言って」


 ハナダイはゴクンとつばを飲み込んだ。ついさっき手にいれた肺呼吸は激しく、喉はカラカラに乾いていた。


「わたし、ユーラスと一緒には、幸せになれないの?」


 周囲の気温が、どっと下がったように思えた。人間の体は、水中に生きる人魚よりもずっと冷えやすかった。そもそも、その冷えは彼女が全裸だからでもあって、全裸に夜の気温はあまりに辛いことを、人間になったばかりの彼女は、気づくよしもなかった。


 とどめのように、彼女の脳裏に、先ほどチラと現れたユーラスの姿がよぎった。


「ユーラス、さっきちょっと来たの。だけど、すぐに帰っちゃって」

「それなのに、人間になる薬を飲んだのか」

「ユーラスがわたしを避けるわけないと思ったの。きっと気付かなかっただけだと思って、探しに行こうとして」

「俺が、もっと早く来てあげればよかった」

「オトメベラのせいじゃない! わたしが……」


 ハナダイは、オトメベラと目をあわせたまま、そこで言葉に詰まった。こんなこと言いたくない。口に出したくない。けれど、言葉をそう強く拒否すればするほど、セレーンの両目からはボロボロと涙が零れ落ちた。


「わたし、間違ったことをしちゃったの……?」


 オトメベラは、しばらく目を閉じ、目を開けるとハナダイの手を握りしめた。


「まだ間にあう」


 そう言って、オトメベラがハナダイの手に握らせたのは、紫色の鞘に納められた、三十センチほどの短剣だった。


「魔女の魔力が込められた剣だ。大昔に、人間になった人魚の伝説は知ってるだろ」


 ハナダイは剣を受け取り、鞘から少しだけ刃を抜いてみた。鈍色は刃こぼれもなく、美しく月明かりを反射している。


「人魚の恋が叶わないとき、ナイフで相手の人間を刺し殺せば、人魚の方は、泡になって死なずに済む、ってやつね」

「そうだ。それで、あのユーラスを刺せ。そして、海に戻ってこい。俺たちはお前を待ってる」

「オトメベラ。わたしに、ユーラスを殺せって言うわけ?」


 オトメベラは押し黙った。その言葉が、今までのハナダイとは少し違った心境から出てきた言葉だと気が付いたのだ。ハナダイは、ユーラスをその手で殺すこと、ただそれだけには、簡単に頷きはしなさそうであった。

 何を言えば、彼女を納得されられるだろう。どうすれば、彼女を死なせずに済む?


「お前自身の手でやらないといけないことだ」

「でも、よりにもよってわたしの手で?」

「じゃあ、お前が死ぬのか?」


 ハナダイが顔を背ける。


「ユーラスは、それでもやっぱりいい人だよ。ユーラスを身勝手な理由で殺すくらいなら、わたしが」

「お前の命を懸けるほどの価値が、今のお前の行動にあるのか?」


 ハナダイの肩が跳ね、そして首を緩やかに傾げた。


「わたしの、行動?」

「お前が今、その姿になっていることの意味だよ。お前、ユーラスが他の人間と変わらないってわかった今でも、ユーラスと一緒に生きたいと思うのか? お前、ユーラスと一緒に生きたいことと、海を出て陸で生きたいこと、その境目って、ちゃんと見えてるんだろうな?」


 ハナダイは息を呑んだ。まさか、オトメベラに、こんなに厳しいことを言われるとは、夢にも思っていなかったのだ。オトメベラは、いつだってハナダイを肯定してくれた。その彼女が、この土壇場になって、ハナダイの軽率な行動を否定するようなことを言っている。ハナダイの行動理由を疑って、その内にある自己中心的な欲望で形作られた動機を暴こうとしている。


 オトメベラの鋭い言葉は、ハナダイに、現状の一大事さを実感させた。そして、自らの愚かさまでも、まるきり、オトメベラの言葉通りに。


「……わかった。わたし、まだ死にたくないもの」


 死にたくない、と口にすれば、ハナダイの喉は実にすんなりと開くものだった。これが、自分の本心なのだと、その冷え切った体に思い知らされた。


「わたし、綺麗なこと言って、本当はユーラスのこと、人間になる薬をもらえるチャンスだとしか思ってなかったのかも。そもそも、わたし、ずっと、恋がわからない子だもんね」

「ごめん。ハナダイの」

「ごめんじゃないよ。あんたは何にも悪くない。わたしのために、沢山ありがとう。大好きだよ」


 ハナダイは短剣を持って立ち上がる。砂浜の傾斜を登るようにすれば、体重を足に乗せることが、さっきよりも容易に感じられた。


「わたし、ユーラスとお別れしてくるね」


 オトメベラが、意思を決めたハナダイの背中を、波打ち際からじっと見ていた。


「いいんだな?」


 そう、最後まで彼女を心配してみせる。


「いいんだよ。わたし、本心にちゃんと向き合ったんだから。本心を探してみたんだから。わたし、ただ、わがままで突っ走ってただけなんだから」


 ハナダイは崖の上を見上げた。

 今なら、彼が砂浜に降りずに帰ってしまった本当の理由がわかる。彼は、異種族であるハナダイが連夜、自分に会いに来ることを、内心不気味に思って、あざ笑って、様子を見るだけ見て帰ったに違いなかった。

 異種族である、「セイレーン」を。


「ユーラスなんて、他の人間と、何にも変わらないんだから」


 オトメベラはその言葉を聞いて目を閉じると、尾を翻した。


「海で待ってるからな」


 オトメベラは、静かにそう言い置くと、チャプンと音を立てて、人魚の世界へ帰っていく。覚悟を決めたハナダイの心を、これ以上、邪魔建てすることはなかった。


「大丈夫。人間って、所詮は異種族なんだから」


 §


 嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい!!

 愉快だ! 非常に愉快な気分だった。どうやら、自分は失態を挽回できたらしかった。事態はなんだか、全て、オトメベラの都合のいい方向に進んでいる!!


 ハナダイに人間になることを進めた時は、本当にそれが正しい行いであると思っていた。幸せそうなハナダイとユーラスの様子を見て、自分は決して、あの間に入ってはいけないと固く心に誓ったのだ。しかし、それはハナダイに対して、未練があったことの裏返しだった。ハナダイを見送ったあと、一人暗闇の中で泣いて気が付いたのだ。


 オトメベラが押し殺していたのは、ユーラスに対する強い嫉妬だ!!!


 しかし、潮の流れはオトメベラの見方をしていた。海の魔女が、改めてハナダイを海に連れ戻すのにふさわしい理由をくれて助かった。砂浜についた時、ハナダイが既に人間になってしまっていたのは、一目見たときは驚いたが、少し考えてみれば都合のいいものだ。


 だって愛するあの人が、愛するその手で、恋敵を殺してくれることになったんだもの!


 必死に説得したおかげで、海の魔女はユーラスを殺すための短剣を渡してくれていた。


 人間に恋をした人魚の伝説は、人魚の間で非常に有名だ。人魚は小さい頃から、その愚かな夢と罪の意識をセットにして植え付けられる。そうやって、無邪気な子供を泡になる運命から守るものなのだ。


 泡になって消える恐ろしさを強く刷り込まれているのは、ハナダイだって同じことだ。


 だから、セレーンは必ず、ユーラスを殺してくるだろう。彼を殺して、海に戻ってくるだろう。そして、傷心の彼女を癒すのは、他でもない、オトメベラだけの仕事だ。

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