第四十八話 メタモルフォーセス篇
半島の砂浜を見渡せる場所で、ハナダイはじっと崖上を見上げていた。影に覆われた岩場に腰かけ、背中を岩壁にぴったりとくっつけて人の目から隠れている。首を伸ばして岩壁向こうを見れば、右側にユーラスと待ち合わせる砂浜が見えるのだった。
「来てないなぁ、まだ。日は沈んだのに」
ハナダイは、左手に握ったガラス瓶に視線を落とした。掌に丁度収まるサイズの瓶には、側面にも底にも厚みがあって、中に入っている液体の量は多くない。つまり、一回分である。
薬は美しいラベンダー色をしていて、どこか甘くておいしそうな香りまでしていた。本来、口苦い魔法薬にこういった香りを付与しているのは、海の魔女の気遣いであり、せめてもの祝福であった。
魔女からもらった「人間になる薬」は、綺麗にカッティングされたガラスの玉で厳重に栓されている。ハナダイは瓶を左手でぎゅっと握って、もう一度、崖の上を見上げた。
――クスリを持ったまま、半島の海岸で待つんだ。それで、祭事を控える時間に、あの男が来たらクスリを飲め。少ない時間に、それでもお前に逢いに来たってんなら、お前、あいつとの人間の暮らしが叶うってもんだろう。
もし、このままユーラスが来てくれなかったらどうなるんだろう。わたし、どうしたいって思うのかな。
その時、崖上に一人分の揺れる頭が見えた気がした。
ハナダイはもっとよく確認しようと身を乗り出し、岩壁から上半身を、月光の中へ露出させる。しかし、崖の上の人物の姿は崖上の森の影になってしまって、ハナダイの目によく見えなかった。
声をかけてもいいだろうか。でも、もしあれがユーラスでなかったとしたら。
「まさか。今日は人間の忙しい日だと言っていたし、ユーラスじゃなかったら、わざわざ海の方に来ないわ」
そう、自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、ハナダイは大きく息を吸い込んで、崖上に呼びかけた。
「ユーラスなの!? わたし! セレーンだよ!」
人影がピクリと反応する。あちらもまた、より身を乗り出して、崖の下を覗き込んでいるようだ。
光の中に、ユーラスらしき黒い癖毛が見えてくる。
「……! ユ……」
もう一度、ハナダイが声をかけようとしたところで、ふいにユーラスの顔がまた、陰の中へ引っ込んだ。それから、崖の上から何やら話し声が聞こえるようになる。セレーンは慌てて岩壁の陰に引っ込み、コソコソと様子を窺った。
ユーラスらしき人影は、崖の上で誰かと話した後、立ち上がったようだった。それから、彼が砂浜に降りてくることはなく、海から見えない半島の中に戻って行ってしまった。
「ユーラス……? なんで?」
ハナダイは岩場に手をつき、砂浜まで這い出た。開けた場所に出て、完全に明るくなった視界に、待ち合わせた彼の姿はおろか、その他の人間の姿すらも見当たらない。
半島の海岸は、実に静かだった。それもそうだ。今日は、深夜に、厳かなる儀礼を控えている。ユーラスだって、イコン画家である前に、半島の修道士であった。今の時間、儀礼に向けた準備だって必要なはずだった。
ハナダイは、ユーラスを求めて砂浜の上を這いずった。しかし、カサゴ少年のように丈夫な体の持ち主ならともかく、ハナダイのピンク色の鱗では、鱗の間に砂が挟まったり、肌に切り傷やら擦り傷やらができたりするばかりで、大した距離も進めない。砂浜を奥まで登りきったとしても、崖上に繋がる階段を上ることができず、ユーラスを追いかけるなんて不可能だ。
「なんで? なんで? 帰ったの? なんで? ユーラス、じゃないの!?」
ハナダイを、今まで経験したことがないほどの焦燥が襲った。心臓がバクバクと脈打って、不安がさらに煽られる。ユーラスが、海岸まで来たのに、なぜか自分に会わずに帰ってしまった。なんで。嫌な考えが頭にまとわりつく。ユーラスが今日、愛に来てくれれば、それは成就する恋であるとオトメベラは言った。じゃあこれは? 一度こちらの様子を見に来たのに、会わずに帰ったこれは、どういう意味になるの? 心臓の様子と、体の重たさが嫌な予感を加速させる。陸上で無理な運動をしたせいかもしれないのに。
「くっっっそ、まどろっこしいわね陸上ってのは! あんまり無理して動くとビンが割れるかもしれないのに……!」
ハナダイはそこではたと気が付き、瓶の蓋をキュポンと開けた。開けてしまった。
今の今までの自分の行動が、まるで馬鹿だったように思える。この手にあるのはどういう薬だ? 人間になる薬じゃないか。この薬を飲めば、陸上での自由な活動が手に入る。
ユーラスを追いかけることができる。
ハナダイの頭には、ユーラスを追いかけて真意を問い詰める以外の行動がなかった。
ハナダイは、「人間になれる薬」を一気に飲み干した。
頭が天を仰ぐ。赤い髪の毛が一斉に背中側に垂れる。裸体の上半身が弓なりに反り、バランスをとろうと鱗の生えた尾が腹側に引き寄せられて、尾ひれが揺れる。
尾ひれが揺れる。尾ひれが激しく揺れだして、二股に分かれていたヒレの根元から真っ二つに割れ始めた。
鱗が剥がれる音、肉が引きちぎれる音。ペリペリペリなんて、そんな可愛らしいものではない。
そこに共鳴するのは、月に向かって吠えるがごとき人魚の悲鳴。しかし彼女は人間に見つかることを恐れて、喉の奥でそれを噛み殺していた。
鰓呼吸をする機関が全身のどこにもなくなってしまう。人間らしい肺は、苦しみに揺さぶられる激しい肺呼吸にも対応した。
白い砂浜を、生まれたばかりの裸婦がかきむしる。
§
――会いたいのではありません。それだけでは足りません。言葉を交わしたくて、彼女に言葉を教えました。なぜそうしたいのか、自分でもわかりません。ただ事実として、彼女は私にとっての命の恩人であり、憎むべき異邦の怪物ではありませんでした。
――そして何より、美しい。
ユーラスは修道士で、この半島は修道士の聖域であった。
ユーラスが祈りの場で神に告白した言葉は揺らぎない罪の真実を明示していて、この心持のまま彼女に会うことは、ユーラスには荷が重かった。




