第四十六話 番外編――ユーラスの告白
半島の砂浜に小舟をつけ、崖を階段で上がる。半島の焦げ臭さは既に薄まってきており、喧噪も聞こえず、逞しくも日常を取り戻しつつあることがわかった。
崖を背にした場所にある修道院、その建物を取り囲んでいた森はすっかり燃えてしまったようだ。しかし、安全と景観のためか、木々は幹から切られて切株だらけになっており、黒焦げになった枝がそこかしらにある、というような、おどろおどろしい状況ではない。
ユーラスが所属する修道院は、もっと半島の中心の方にあった。小道に沿って坂を下っていたところで、右方から声を掛けられる。
「ユーラス?」
その人物はユーラスが互いによく知る司祭であった。振り返ると、小道の右側では、チリチリになった芝生の上で家畜小屋の復旧作業が行われているようだった。五、六人の修道士が木材を運んでいる中で、一番手前に立つ修道士と言葉を交わしていた様子の司祭が、相談事を一時中断してユーラスを見ているのだった。
「ノエ司祭」
「よかった、無事だったらしいな」
そう言って破顔する司祭は、その役職の割にまだ若い男であった。黒髪を坊主近くまで短くして、精悍な印象の見た目である。黒いローブの下には屈強な肉体が隠れていることも、ユーラスは知っていた。彼は、ユーラスと同じ修道院に所属しているのだ。
半島の司祭の中でもまだ若い彼は、今夜から始まる復活大祭に向けて、半島復興との調整を自らの足を動かして行っていた。
「今から戻るのか? 院長も心配している。会うなら身を清めてからにしろよ」
「はい。わかってます」
そのそっけない返事に、司祭はハッとなって顔を曇らせた。「ユーラス……」と再び名を呼ぶ声は、彼が心からユーラスを案じていること、ユーラスの内心に渦巻く不満を感じ取ったこと、両方を内包していた。
§
「ユーラス、無事に戻ったようで何よりじゃ」
ユーラスは視線を下げて後ろを振り返り、すぐに顔を戻して斜め上を見上げた。聖堂の扉が開かれ、灰色の髭を蓄えた老父が、白い日光を背にして入ってくる。彼を完全に中に迎えると、扉は自重でぴったりと閉じて、聖堂はシャンデリアの蝋燭が放つ赤い光に満たされた。
石造りの聖堂は古く、大きな窓がなかった。圧迫感のある冷たい壁を、隙間なくフレスコ画が埋めている。行進する聖者の列が左右の壁に連なり、その列の先頭に向かえば、左に生神女のイコン、右に復活のイコン。
ユーラスは右のイコンの前で、じっと立ち尽くしていた。癖の強い頭髪の影の横に、クロブークの四角いシルエットが並んだ。
「ノエに言われて院長室で待っとったが、いつまでも来んのじゃもん。わしに会いに来んということは、ここに居るに決まっとろうて」
「悪魔信仰者は、こんなことをして何も思わないんでしょうか」
「ふむ……目的を半分達成して、悔し半分というところじゃろうな。十字行用のイコンは持ち去られた。こちらは下半分が剥がされたが、不幸中の幸いと言おうか、救世主は無事じゃ」
「幸いなもんかよ。一枚絵が台無しだ」
ユーラスの目の前には、無惨な石壁がむき出しになっていた。天井まで届くフレスコ壁画の、救世主が描かれた上半分だけが残され、アダムとイヴが描かれていたはずの部分だけ、時間がなかったのか届かなかったのか、野盗の事情など知らないが、絵を壁から剥がし、持ち去られてしまっている。壁を修復し、絵を描きなおそうとすれば、今夜の祭事に間に合うはずもないだろう。
「復活のイコンは、悪魔信者にとっても大事なものだったんじゃないのか。アダムとイヴの場所だけ切り取って、絵の本来あるべき姿をめちゃくちゃにするなんてどうかしてるよな。そんなの、大事だっていう絵にしていいもんじゃないだろ。それとも、この絵のアダムとイヴだけが大事だったとでも言うのか。馬鹿にすんなよ、全部そろって復活のイコンだ」
「ユーラス……お前が、このイコンにどれだけ思い入れがあるか、わしは知っている。お前が復活大祭までに、イコンにどれだけの時間を費やしてきたか知っているからな。しかし……、今回の襲撃は防ぎようがなかった。悪魔信者が来ることは揺らぎようなく、そして、奴らはプロであった。わしはまず、人命に被害がなかったことを神に感謝したい。そして、今夜からの復活大祭が無事に行われ得ることを喜びたい」
「無事じゃないでしょ。イコンが失われた」
ユーラスは、修道院長の優しい言葉を受け付けなかった。院長は鼻から小さく溜息をついて、ユーラスに静かに寄り添った。
薄暗い聖堂内で、救世主が蝋燭の明かりに照らされて、二人を見下ろしている。本来、その視線の先に居るはずのアダムとイヴがいなくなって、こんなちっぽけな自分と、直接に目が合うようだ。
「ユーラス」
「なんですか」
「お前はイコン画家である前に、一人の修道士のはずじゃ。じゃったら、正しい回答ができるじゃろう」
「……何に」
「お前が信仰するのは、イコンか、主か」
ユーラスは大きく息を吸って吐いた。ああ嫌だ、なんだその質問は。小賢しいったらありゃしねえな、このじいさん。
「私が信仰するのは、イコンに描かれた偶像そのものではなく、イコンが表す、主のみです」
「よく言った、ユーラス。主も認めてくださる。修道士ユーラスなら、今せめてものやるべきことがわかるじゃろう?」
「……。十字行に使うイコンなら、私が逃亡中に描いたタブローがございます。それを使って行進し、終了後は他の多くの協会のように、同じタブローを聖堂に飾りましょう」
「さすがじゃ、ユーラス。仕事熱心な子は愛される」
ユーラスの指がピクリと動いた。修道院長はそれに気づかず踵を返す。
「先に戻っておるよ。気が落ち着いたら戻ってきなさい。皆も心配しておる。最後に言うがユーラス、お前は無事に島を出て、戻って来たというだけで、イコン画家の役目を十分に果たした」
院長が聖堂を出て、静謐な空間にはユーラスだけだ取り残された。ユーラスは半分になったイコンから視線を外し、左側の壁を見る。そちらの方角は、海岸に続いているはずだった。ユーラスの目には分厚い石壁を越えて、風を運ぶ白波が見えていた。
――セレーンはどうしてる? 彼女なら、もっと有益な会話をしてくれる。……やべぇ、そういえば、今夜会う約束したんだったな。祭事が始まる前なら会えるか。日が暮れた後からなら、満足に話す時間もないだろうな。その時間に来てくれるかどうかもわからねえけど、ギリギリまで砂浜で待っておいて……。
ぞくり、と脅すような視線を背中に感じた。
ユーラスは反射的に振り返り、視覚、遅れて脳の順で、そこに誰もいないことを確認する。存在するのは、天井近くに取り残された救世主の絵、だけだ。
――何ですか。何か、まずいことでも?
ユーラスは救世主と目を合わせたまま、セレーンの姿を頭に思い浮かべた。一番に浮かんでくるのは、月下の海で小舟を押して、キラキラと光る赤髪だ。次に笑顔、それから白い胸元。
――問題ねえよ。セレーンは人魚だ。女人禁制とはいえ、あれに性別があるとは思えないね。
だから、半島の砂浜で彼女に会ったって、何の戒律にも抵触しないはずだ。家畜すらオスで統一されたこの聖域であったとしても、まさか、セレーンと会うことが、咎められることだなんて。
――なぜ、彼女に会いたいのか。
そう、誰にともなく問われた気がして、ユーラスはその場に膝をつき、両手を合わせて組んだ。
咎められている。どれだけ大丈夫だと自分に言い聞かせても、今この場で、自分がセレーンに抱くこの感情について、主に咎められていると明らかに感じる。告白するユーラスの声は震えていた。普段、乱暴に発音するこの口が、今、この時ばかりはどんな経験な信徒よりも美しい、コイネーを思わせるギリシャ語を発す。
「会いたいのではありません。それだけでは足りません。言葉を交わしたくて、彼女に言葉を教えました。なぜそうしたいのか、自分でもわかりません。ただ事実として、彼女は私にとっての命の恩人であり、憎むべき異邦の怪物ではありませんでした」
――そして何より、美しい。
それはあまりにもユーラスらしくない気障な言葉で、神の恩前ですら口から出ないのであった。




