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第四十五話 悪魔信仰篇――その二

「明確に悪魔を信仰していなくても、異教徒とか、聖典にそぐわない思想を持った人たちとかも、あの半島にいるような聖職者たちは一括りに悪魔信仰者と呼ぶの。まあ、当たらずとも遠からずっていうか……、長年、異端異端と迫害されるうちに、本当に悪魔を信仰し始めたりするから。例えば……わ、私とか」


 池の中から彼女を見上げる人魚たちが、スッと息を吸い込んだ。海の魔女は慌てて両手を顔の前でぶんぶん振り、自ら予想した反応に先んじて否定する。


「ち、ちがう違うよ! 半島を燃やしたのは私じゃない! 例えばって言ったのは、風評被害が転じて悪魔信者になるってところで……何て言ったらいいのかな……。私の一族は、海の魔女になる前は、陸で自然科学を学ぶ善良な一般市民だったの。だけど、自然科学は度が過ぎると、聖典にて神が作ったとされるこの世界の仕組みを、神とは関係のないところで暴いてしまうことになるから。だから私たちには、聖典を否定した極悪人として、聖職者に迫害されてきた過去があるの。生まれた場所に住めなくなって、逃げてもまだ研究を続けて、さらに迫害されるようになって、生きていけなくなった私たちは、いつしか、神以外のものに助けを求めるようになった。神以外の存在を信じるようになった。だからほら、そんな歴史の証みたいに、私、黒装束を着ているでしょう?」


 海の魔女は目を伏せた。海底に潜って生活の拠点を築くことも、人魚が人間になる薬を作ることも、彼女が持つ人間離れした魔力などによるものではない。彼女の一族が蓄えてきた、科学技術の成果なのだ。


「私たちが信じるものは神じゃないけど、だからといって、悪魔を信じているつもりもない。ただ、聖職者たちが、それを悪魔と呼んだだけ。元々、聖典には悪魔なんて載っていないんだよ。神様が作った世界に、人間を堕落させる悪魔なんていなかったの。後付けなんだ。人間が神様を信じたことで、神様が生まれたように、悪魔も、人間が存在を信じたから生まれたものだ。悪魔がどういうものかなんて、神より幅広いくらいだよ」


 でも、と、海の魔女は言葉を続けた。その声は先ほどよりも一段と低まり、傾聴する者の背筋をひくりと伸ばした。


「時間が経つと、聖職者の言う『人間を堕落させる悪魔』のことを、好んで信仰する人が現れ始めた。単なる異教徒ではないし、私たちみたいに迫害されたというわけでもなさそうな人が、その中には含まれる。神様に反抗したかったり、世の中に反抗したかったり、あるいは、悪魔が持つ恐ろしいけど便利な力に魅入られた人たち。そういう人たちは、聖職者にとっての悪役通りの悪魔を愛する。地獄から這い上がってきて、聖典の教えと真逆のことを信じ、教会の祭典と真逆のことをする。むしろ、そっちが今主流の『悪魔教会』なのかな。私たちなんて、過去の遺物になっちゃったのかも。ほんとは、ほんとはね、悪魔信仰って、そうやって背徳を愛するようなものじゃないのに」


 じゃあ、と、ハナダイが結んでいた口を開いた。池の淵に腰かけて、体を捻って魔女を振り向いている。


「半島を燃やした野盗は、その、後から生まれた方の『悪魔教会』なの? ユーラスが、復活大祭? ……の絵はそいつらにとっても大事って言ってた。元々の宗教に近いのは、新しい悪魔信仰の方なんでしょ」


 海の魔女が、眉根を寄せた難しい顔で頷く。


「うん。半島を襲ったのは、そいつらだと思う。もっとも、今や悪魔信仰者の全てが『悪魔教会』に一体化してきているから、分けることすら野暮なのかもしれないけれど。……なんで復活大祭のイコンが、『悪魔教会』にとって大事なのかは、聞いた? ……そっか。復活大祭のイコンはね、救世主が、アダムとイヴを地獄から救いあげる場面を描いたものなの。最初の人間として有名なアダムとイヴだけど、人間のルーツである以上、悪魔信仰者にとってのルーツも、またアダムとイヴということになる。しかも、二人は最初の罪人。世界で初めて、罪を犯した人たちだ。見方を変えれば、二人は悪魔にとっても原初的存在なんだ。だから、悪魔信仰者から見れば、復活大祭のイコンは、悪魔が地獄から這い上がる場面の絵なの。神の迫害を乗り越えて地獄から這い上がり、今にもこの世を手中に収めようとする、偉大な悪魔の図。悪魔教会にとって大事なものになるのも、頷けるでしょ。それに、今年はどうやら、日付も特殊みたいだ」


「暦の満月と、本当の満月が重なる年だって言ってた」


「それ、そうらしいね。救世主は満月の日に殺されて、三日後の日曜日に復活した。救世主の死は神の信者にとっては喪中、悪魔信者にとってはお祝い。そのお祝いは悪魔が地獄から這い上がる復活大祭まで続く。つまりね、今の時期は、両者ともに、とても大事な時期なんだ。しかも、今年はハナちゃんが言った通りの暦だ。復活大祭の目印となる満月の日が、実際に救世主が殺されたとされる日と、ぴったり重なる、……かもしれない。そういう風に考えられてる。要は、半島の修道士だけじゃなくて、悪魔信仰者もまた、今年の『悪魔復活祭』を、本格的に祝いたいわけだよ。そのためには、聖域のイコノスタシスから奪ってきた、本物のイコンが必要なんだ。だから彼らは、半島を燃やして、復活大祭のイコンを奪いに来たんだと思う」


「何それ、おかしいんじゃないの? 悪魔を信仰しているのに、半島のものを大事にしたり、おんなじ日にお祭りをしたり、結局は神様の教えが大事だって認めているわけじゃない」


「聖なるものを穢すことが、背徳的で悪魔的なんだよ」


 ここまで話して、魔女は少し目を細めた。その眉をやや心配そうにひくりと震えさせて、自分を見上げてくる、この人間になりたい人魚を眺めてみる。


「ハナちゃん。助けた人間の男の人から、沢山、話を聞いたんだね。人間の言葉も教えてもらったの?」


 ハナダイは、目をぱちくりとさせた。そういえば、彼とどういう風になったのか、魔女にはまだ伝えていなかったか。ここにいる者で知っているのは、自分と、様子を見に来たオトメベラだけだ。ハナダイは唇を指先でそっと抑えて、照れ隠しをしながら答えた。


「あー、あのね、そうなの。人間の言葉、教えてもらったの。それから、絵の描き方とか、カトラリーの使い方とかも教えてもらった。あと、今日もまた夜になったら、人間の神話の続き、教えてもらう予定」

「へえ、いっぱい教えてもらったんだね」


 魔女は一つ一つ、頷きながら聞いていた。その様子は、まるで診療する精神医師か。

 オトメベラが、ザブンと音を立てて池の淵に腰かけた。その場所は、魔女が座る椅子を挟んでハナダイと反対に位置し、お互いに首を横にねじれば、ハナダイの顔を正面から見ることができた。

 ハナダイがオトメベラをちらと見て、それから、と言い募る。


「わたし、名前もつけてもらったの。セレーンっていうの。ね、オトメベラ」

「えっ、名前も?」


 目を軽く見開いた魔女に、オトメベラはしぶしぶといった様子で答える。


「……ああ、そうだよ。迎えに言ったら、お互い愛おしそうに人間の名前で呼び合ってるんだもんよ、海底のオスが見れば嫉妬するくらいだ」

「愛おしくはない。名前ができてうれしかっただけ」


 ハナダイは半目になって頬を膨らませた。

 しかし、ハナダイのそんな様子を見た魔女は、今度は意外そうに首を傾げた。


「あ、あれ、男のことは愛おしくないの?」

「あの人の名前はユーラスだよ! ……それから、愛しく? ない、ないよ。いろんな知らないことを教えてもらって、仲良くなっただけ。わたし、恋はしたことないって言ったでしょ。いくら人と仲良くなっても、それ以上好きにはなれないのよ」

「ハッ、今日も会う約束してたくせに、何言ってんだか」

「それは神話の続きが気になるだけ!」

「別に恋とは言ってないけどな、私」


 魔女が人差し指の先で頬を引っ掻いた。目線を斜め上にずらし、何やら言葉を選ぶような素振りを見せる。ぐるぐると目を泳がせるうちに、カサゴ少年が池の底に沈んでしまっているのに気づいて、優しく手を伸ばして声をかけた。


「もう出ておいで。恐れることはないようだ」

「何よ、恐れることって」


 ハナダイが言う。魔女の呼びかけに応じて、カサゴ少年はまず目元だけを水上に現した。そのキョロッとした大きい目でハナダイをじっと見た後、プイッと魔女に視線を戻し、静々と全身を陸上に上げてくる。

 よく懐く犬のように魔女の足元へ体を寝かせながら、カサゴ少年は言った。


「お前のことだ。不良人魚」

「も〜……。あ、あのね、カサゴくんも、私も、心配していたんだよ。ハナちゃんが、もし、助けた人間に恋をしたって言っちゃったらって」

「何であんたがそんなこと心配するの? ……ああ! 人間に恋をしたら、人間になる薬をもらえるんだった! しまった、嘘でもいいから言っとけばよかった……」

「そ、そう、そうなんだけど、ハナちゃん」

「何? ていうか、わたし今日から、セレーンなんだってば」


 ハナダイは魔女とカサゴ少年に、体ごと向き直った。その視界には二人だけでなく、オトメベラの顔だって映っている。三人の表情は何故か似通っていた。似通った、憐れむような表情。オトメベラだけはその内に、厳しく睨むほどの険しさが混ざる。


 魔女は言った。


「だって、助けた人って、修道士でしょ。修道士は、女性に恋をしちゃいけない。薬の事情を話すとね、人間になる薬を飲んだら、まず最初に、人間に向けた恋を成就させなきゃいけないんだ。恋が叶わなければ、相手の人間を殺さない限り、人魚の方が死んでしまう。ハナちゃん、相手が修道士なら、それは叶わない恋だ。だから君が、恋をしていないと言ってくれて、私たちは心から、……実はね……、安心したの」

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