第四十五話 悪魔信仰篇――その一
「また神話のこと教えてくれる?」
「教えるから。ほら早く帰れよ、こっちまで濡れるだろ」
「じゃあまた潮が」
「ああ、潮が満ちたときに」
「……驚いた。ハナダイの、お前人間語喋ってねえか?」
朝日が昇り、まだ帰ってきていないというハナダイを、男の居る孤島まで迎えにきたオトメベラは、白く照らされた砂浜の波打ち際で、恐ろしい光景を見た。
潮が引き始めて広くなりだした砂浜の上、海水の至極浅いところで、ピンクの人魚は腹を下にして寝転がり、すがるように男の修道着の裾を握っていた。昨日は森の中から出てこなかった男が、ハナダイの手が届く位置まで砂浜に出てきて、嫌そうな顔をしながらも、靴が濡れないギリギリのところに留まっている。その位置取りは二人を親密に見せ、そしてその印象が気のせいではないことを裏付けるように、弾むようなテンポで会話を交わしている。
オトメベラが海の中から投げかけた言葉に、ハナダイは笑顔で振り返った。
「あっ、迎えにきてくれたの? それじゃあ、ユーラス」
「ああ、またなセレーン」
「す、れ、何だって?」
「セレーン。名前をくれたのよ」
「名前をくれた!?」
「あの人はユーラス。ユーラスよ」
「は……」
流暢に人間の言葉を話し、人間のような名前までつけてもらったというハナダイ。オトメベラは、側に寄ってきた彼女からほんの少し距離をとるように身をひいた。
「一晩とは思えないほど、しゃべりがうまくなったろ。セレーンは筋がいいぜ」
「……俺は何言ってるかさっぱりわかんねえよ。でも、まじでびびった。もう既に、人間みたいになっちまった」
オトメベラはハナダイの手首をつかみ、空いたままの逆の手の親指でユーラスを指した。
「おい、セレーンさんよ。人間語ができるなら、今から俺が言うことをこいつに伝えてくれ」
「え?」
ハナダイは大人しくオトメベラの言葉を聞き、それをそのまま、困惑した表情でユーラスに伝えた。
「あなたが居た半島の様子が、大分落ち着いてきたようだって。帰るなら、今のうちだって」
§
人魚たちは再び小舟を引き、ユーラスを半島へ帰した。ユーラスは半島に上陸すると、人魚たちを振り返らずに行ってしまった。磯の岩陰から様子を覗いていれば、遠く、崖の上で歓喜の声が響き、その中に「ユーラス!」と叫ぶ声が混じって聞こえた。彼が帰ってきたことを、半島の修道士たちが、こんなにも喜んでいるのだ。
「夜の約束、なくなっちゃうのかな」
「何の約束?」
「神話を教えてもらっていたの。神話を語りながら、人間の言葉を教えてくれたのよ。彼が信仰する神様じゃなくて、彼の故郷に伝わるお話。人魚みたいなのも出てくるんだって」
「そりゃあいいや。人魚とセイレーンの判別ができる人間に、悪いやつはいねえ」
「何よ、あんた他の人間知らないでしょ」
「お前もな。行こう、ハナダイの」
オトメベラは、会話を軽口で終わらせてその場を去った。ハナダイは、緑色の尾ひれが海の中に溶け込むのをじっと見つめて、もう一度崖の上を振り返り、それから、オトメベラの後を追って、海の中へと帰ることにした。
「もしユーラスにまた会えなかったら、もう、セレーンって呼んでくれる人、いなくなっちゃうのかな」
§
「ハナちゃんが帰ってきたら、話そうと思っていた。半島で何があったか、知りたいでしょう? オトメちゃんから話を聞いて、だいたいのことはわかった」
海の魔女は、洞窟の真ん中に空いた池のすぐ傍に椅子を持ってきて、暖かそうなひざ掛けを広げた。じっくりと話したいという意思だ。池の中には、カサゴ少年と、彼につれて来られたオトメベラとハナダイがいた。
海の魔女はひざ掛けの端を口元に持ってきて、長い毛を唇にふわりと当てる。喋りの苦手な海の魔女も、こうすれば落ち着くのだ。
「半島を襲撃したのは、『悪魔信仰者』。正しくは、その団体に雇われた傭兵。でも、悪魔信仰に力を貸すなんて、よっぽどのならず者じゃなければ、悪魔側の人間だろうから、悪魔信者と似た格好をしていたかも。あ、だけど、どっちにしろ傭兵であることに変わりはなくて、彼らは戦争に長けてる。だから、修道士しかいない半島を壊滅させられたし、目的のものも、しっかり壊せた。だから、復活大祭の前日にして、状況が落ち着いてきたんだと思う」
「目的のものって?」
「復活大祭のイコンだよ」
オトメベラの質問に魔女が短く答えたところで、ハナダイがすっと右手を上げた。
「それは知ってるわ。ユーラスがその絵を修復する係で、明日のお祭り? までに直す予定だったんだけど、もう燃やされちゃっただろうって話してたの。それより分からないのが、悪魔信仰って何? 悪い人たちということなの?」
魔女は、一瞬だけためらう表情を見せた。
「悪魔は……、真の教えに逆らう者。逆に言えば、真の教えに逆らう者は全て、悪魔と呼ばれる」
しかし、次の瞬間には、彼女は「悪魔」という存在について淀みなく語りだした。その口調はまるで専門家が他人の意見を述べるような、どこかに嫌悪感を覗かせるものだった。




