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第四十四話 東の風篇

 修道院のある半島より南に下り、東の海岸、西の海岸、はたまたエーゲ海に浮かぶ人の住む島、そのどれからも離れた小さな孤島で、男は一夜を明かした。


 彼にここで休むことを勧めたのは人魚の二人だった。ハナダイは、この辺りの無人島が良い隠れ家になることを知っていたし、オトメベラもハナダイに続いて、日光浴できる人気のない海辺の陸地をよく巡っていた。


 白い朝日が砂浜を照らして、細かい粒をキラキラと輝かせていた。男が乗ってきた小舟は波打ち際から離れた森林の入り口にあるが、これは島に到着した時点では満潮だったために、丁度その森林の木にロープを結び付けられる位置まで乗り付けることができた名残である。現時刻、砂浜はその広い面積を幾分か晒し始めていて、男が一先ずの拠点に設定した小舟近くの大きなヤシの木と、波打ち際までの間には、ハナダイが浜を登ろうとすれば鱗の隙間に石粒が入り込んで難儀するだろうと容易に想像できるほどの距離がある。


 だから、ハナダイはこれ以上、男に近づくことは諦めた。ハナダイは浅い海の中に尾ひれを半分浸けた状態で、持参したものを砂の上に放り出した。


 人魚が、何か砂の上に。男はヤシの森から出てきて、ハナダイの土産の元に歩いてくる。


 それはこの近海に住む、小さなアザラシの死骸だった。


 ウッ、と不快感のせり上がる喉から呻き声をあげて、男は顔をしかめながら森へ戻ろうとする。


「待ってよ。せっかく獲ってきてあげたのに、どうして食べないの? おなか空いてるでしょ!」


 ハナダイが抗議の声を上げると、男はすぐに振り向いた。言葉がわからないながらも、彼女の声の調子や表情で何が言いたいのかわかったのだろう、男はあえてわかりやすく頭を振って、両手をクロスさせて「×」を作った。


「俺は修道士だ。肉は食べない。悪いが、これはお前が食べてくれ」


 言って、アザラシの体には触れず、その上空を片手で押し返すようなジェスチャーをする。なおも不満げに唇を尖らせるハナダイの後ろから、オトメベラが顔を出して波打ち際まで這いあがってきた。


「知らねえか、ハナダイ? 人間はこれを使ってメシを食うんだぜ」

「何それ」


 得意げな表情で、オトメベラは砂の上にナイフとフォークを並べて置いた。


「難破船から拾ってきたんだ。前に、人間がこれを使って肉を食ってるのを見たことがあるぜ」

「カトラリー……」


 男はそう呟き、鈍色をした食器を取り上げた。外郭を中心に錆が付いているが、その部分だけ削り落せば使えるだろう。もしかしたら、持ってきた画材の中にも錆落としに使える器具があるかもしれない。ただ、砂の上に置かれたせいで、地面に接した部分が大分砂だらけだ。


「ほら、二つとも海水で洗ってやがる。やっぱり食事に使うんだよ」

「カトラリーを持ってきてくれたのは助かる。でも、やっぱりアザラシは結構だ。動物の死を無駄にはしなくない。お前らで持って帰ってくれ」

「……何?」


 オトメベラが怪訝そうに眉を顰める。再び、男が強く首を横に振ると、ハナダイが片手を男に向け、それから指で自分の口を指し示し、唇をパクパクと開閉させて、首を傾げた。


「じゃあ、あんたは何を食べるのよ。このままだったら死んじゃうわよ」

「……えっと」


 男は一瞬、目を上に向けた。考える素振りである。人魚たちの表情、特にピンク色の尾ひれの彼女の様子を見る限り、どうやら自分を純粋に心配してくれているみたいだ。なぜ。昨夜は船をここまで運んでくれた。夜が明けても、食事の世話をしようとしてくれる。人外のくせに不思議なものだ。


「じゃあ、魚。魚なら食べる。わかるか、魚だ」


 男は両手を重ねて鼻の前に持ってきて、にょろにょろと横にくねらせてみた。さらに、片手を尾てい骨のあたりに持ってきて、再びにょろにょろと、ヒレが動く様子を伝えてみる。見ていたハナダイとオトメベラは、互いにゆっくりと顔を見合わせて、呆れたようにため息をついた。


「こいつ魚がいいんだって」

「贅沢なことだ。イワシでも獲ってきてやろうぜ」

「大漁確保よ。人間は弱いんだから」


 二人の人魚はくるりと後方を向くと、尾ひれを絡ませあうように揺らめきながら、海の深い所へ消えていった。


 ほっと一息ついて、男は、今まで自分が緊張していたことに気が付いた。考えてみれば当然である。昨日はろくに眠ることもできなかった。森を通って海にせり出した高い岬に上がり、遠く「聖域」の様子を望んでいた。


 人魚を追い返し、再びその岬の端に立ち、およそ北の方角を眺める。


 昨夜の炎は、暗い黒のキャンバスにアンタレスのような赤い点を浮かび上がらせていた。今現在、その赤は見えない。つまり、ひとまず炎は沈火されたのだろう。しかし、野盗はまだその汚れ切った足で、聖域を徘徊しているかもしれない。もしそうなら、か弱い修道士たちは一度半島の外に逃れて、まだ帰ってきていないだろう。……いや、あれだけの騒ぎだ。既に公的な助けが介入している可能性も。


 半島の様子は、遥かな距離と海上の霞みに隠れて、確かなことは何も伺い知れない。


 なら、聖域のことは聖域に残った仲間たちに任せるしかない。


 今、男が優先すべきことは、その身一つに背負わされた使命を全うすることだ。


§


「やっと落ち着いて話すことができるわ。やっぱりお話しするには、お互いにリラックスできる姿勢になれなきゃいけないでしょ。砂浜で喋ろうとするとあんたは立ちっぱなしだし、わたしも腰かけるところがないもの」


 日が沈み、再び潮が満ち始め、森林と海の境界が詰まってきた頃合い。ハナダイは上機嫌に鼻を鳴らして、小舟の傍の、傾斜がある砂浜に腰かけた。そこに座って後ろを振り返り、少し上を見上げれば、男とすぐに視線を交わえる寸法だ。


「ああ、昼間はどうも。……」


 手元の作業から顔を上げてハナダイを一瞥した男は、そのまま不思議そうに眉を上げて、海の中をキョロキョロとする。察したハナダイは、目を細めて片手をヒラヒラとさせた。


「わたし一人だよ。オトメベラはね、夕方にあの子のじいさん()に行ってから戻ってこないの」

「いないのか。代わりに礼言っといてくれ。わかるか? 礼だ。わかんねえか」


 そう、まるで独りごちるように言って、男は再び手元に視線を戻した。男は、拠点としたヤシの木に背中を凭せ掛け、膝を折り曲げて座り込み、その太もものところにキャンバスを置いていた。猫背ぎみに丸まって、その中に絵筆でせっせと書き付けている。キャンバスは腹を支えに膝から十センチほど飛び出るの大きさのもので、絵を描くにしては少々小さめな方だろう。一日中作業を進めて、現在下書きと下地は終わり、背景を全て塗り終えたいようだ。月光が斜めから差し込む時間はもう限られている。今日の目標達成まで、あと数手というところだ。


「何してるの? ああ、わかった。絵を描いているのね。人魚も絵を描くのよ。海底の岩壁とか、昔沈んだ人間の建物の壁とかにね。でもそうやって描いたまま放置していると、時々人間が船で引っ張り上げて、もっていっちゃうことがあるのよ。人間って絵が好きよね。あんたは何書いているの?」


 ハナダイは返答を期待しないまま饒舌に喋った。しかし、この状況はハナダイの中では、「人間とおしゃべりしている」ということに他ならなかった。言葉が通じない犬猫を前に、「ペットとおしゃべりしている」と言う感覚と一緒だ。


今のハナダイの中に、魔女の言葉――人間と恋をするなら、人間になる薬をやる――は存在しなかった。そんな打算的な気持ちでここに居るわけではない。ただ単純に、「わたしが彼を見ておかないと、人間は弱いからすぐに死んでしまう」と、そう考えているから側にいる。もちろん、そこには、少しでもいいものを食べさせてあげたいな、というような慈しみもある。ペットの飼育と同じだ。


 ハナダイがキャンバスを覗きこむと、月明かりが遮られて、男の手元が真っ暗になった。その視界では、描かれた人物がチラとしか見えない。


「人間、が……三人?」

「描けないだろうが」


 男はハナダイの肩を押した。


「これは今年の復活大祭で使うイコン、の、代用品だ。春の満月の後の最初の日曜日には、教会で復活大祭が行われる。本当なら、毎年使っている復活のイコンが、半島の聖堂にはあって、それはもっと大きなフレスコの壁画なんだ。俺はその壁画を、復活大祭に向けて修復する使命を負ってたんだ。……でも、復活のイコンは、救世主がアダムとイヴを地獄から救いあげる図で……、これはあの忌々しい悪魔信者らにとっても大事なイコンらしい。今年は暦上の月齢と実際の月齢が一致する、本物の満月の年だ。悪魔信仰においても重要な年だから、あいつら、うちの復活のイコンを奪いに来たんだ……!」


 男が苦悶の表情で語る話を、ハナダイはぼうっとして聞いていた。何か、重要な悩み事を言っている気がする。それはわかるけれど、その内容はさっぱりわからないわ。わたしにできるのは……、慰めて、励ましてあげることかもしれない。でも、さっき近づいたら怒られたし。

 男はハナダイの様子を見て、彼女の内心の動揺に気が付いた。筆を止め、溜息をつく。


「いい加減、まどろっこしいな。おいお前ら、人魚同士で話してたよな。要は、言語の概念はあるんだろ? 人間の言葉を教える。まずは名前からだ」


 男は絵を傍らの画材袋の上に置き、ハナダイに向き直った。


「俺の名前は、ユーラス。わかるか、ユーラス。東風だ」


 その名の響きは人魚の言語に似ていて、まるでその一単語だけが、ハナダイの耳に浮き上がって聞こえた。


「ゆ、らす」

「ユーラス」

「ユーら、す」

「そう、それが俺」

「ユーらす?」

「はあい。お前、名前は?」


 今度は、ハナダイに手を向けて、自己紹介を促す。しかし、ハナダイは首を横に振った。人魚は、相手のことを種族名で呼ぶ。人間には種族名がないので、それぞれに名前をつけるという話は魔女から聞いていたが、なおも、名前をつける習慣に馴染みがなく、魔女だって海の中では、自分の名前ではなく「海の魔女」と呼ばれている。


「ハナダイ。わたし、ハナダイと呼ばれてるわ」

「……。すまん、わかんねえわ。わかった、もう俺がつけてやるから。えっと……」


 男は、ハナダイの姿に想いを馳せた。男が見るハナダイは、いつだって月光を背負っている気がした。月が昇り、ヤシの木の下を照らさなくなる。角度の加減で、ハナダイの周囲だけが銀色に照らされている。


「月の女神(セレネー)……の名前は、東風には縁がなさすぎるか。あれは神の話ではなく、民族間で語られた自然を模す寓話の一種だとされるし。そうだな」


 ――もっと、海風を感じるような名前がいい。そうだ、風に乗って飛べるような、昨日の、小舟のクルージングを思い出せるような。


「セレーン。お前、セレーンでいくぞ」

「れーん」

「セレーン」

「す、セ、レーン」


 ハナダイは首を傾げた。男はそれを見てハナダイを指さし、もう一度、「セレーン」、それから、自分を指さし、「ユーラス」、と言った。

 この人は、自分を「セレーン」と呼ぶことにしたらしい。ハナダイはようやく理解して、自分の名前をたどたどしく口にすると、「わたしがセレーンよ」とでも言うように、元気に尾ひれを撥ねさせた。

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