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第四十三話 満月の恋篇

 ハナダイと男は、互いに岩にへたりこんだまま、ぴくりとも動けずに見つめ合った。海中から引き上げた男は、呼吸を整えたあたりでハナダイに怒鳴り声を上げた――そこで直面した事実に、ハナダイはゴクリとつばを飲み込む。


わたし、人間の言葉、わからないじゃん――。


 人魚の言葉は、ほとんどの音が「ユ」で構成される。人間の言葉とは似ても似つかぬ、海中でのコミュニケーションに長けた声の集まり、それが人魚の言葉である。ハナダイは、何を言われたのかもわからないまま、ただ目の前の人間の機嫌を損ねたことだけは、その表情と声音から汲み取って、恐怖に肩を震わせようとしていた。


 しかしその前に、男の雰囲気が少しだけ緊張をやわらげた。


「……とか、いう話でもなさそうだな」


 女人禁制、というこの島独特のルールを持ち出せるような、常識的な相手ではないようだ。そう、男の方が察したのだ。男の視線は、ハナダイの下半身、ピンクの鱗に覆われた迫力ある魚の尾ひれに移っていた。


「まじかよ、人魚。本物? なんだこれ、神の采配か? お前が俺を助けたっていうのか」


 戸惑いから漏れる言葉も、ハナダイには理解できなかった。思わず、「えっと……」と零した声は、男の耳には聞き慣れない響きを孕んだ怪物の鳴き声にしか聞こえず、とうとう彼を勢いよく立ち上がらせた。


「わけわかんねえ、行かねえと……!」


 再び船の方に歩みだそうとする男の腕をつかみ、ハナダイはその足を立ち止まらせる。


「馬鹿、そのまま行ったらまた海ン中に落ちるでしょ!!??」

「はあ!!?? だから何言ってんかわかんねんだよ!! お前喋れねえのか!!!!」

「だから何言ってんのかわからないのよ!!!!」


 互いの負けん気の強さだけで交わされる激情のコミュニケーション。その中に、崖の上から別の男の怒鳴り声が割り込んだ。


「オイッ! こっちから声がしたぞ! ……修道院の奴か? 逃げた奴じゃねえのか!?」


 ハナダイが引き留めている男がハッとして顔を上げる。消火に励んでいた修道士たちは、野盗に圧されて逃げてしまったのかもしれない。勢いを増す炎を越えて、また新たに崖のヘリまで出てきた屈強な男が、松明の火を海側へ掲げる。修道服に似ているが、それよりも丈が短く、機動性を重視した服。胸には逆十字のロザリオが、鈍色に炎を反射している。そんな服装に身を包んだ柄の悪い男が、自身が持つ明かりに照らされて夜空に浮かびあがった。


「!」


 野盗と、それから逃げる修道士の男の目が合った。

男が息を呑む。しかし、野盗は崖下の様子を確認するなり、「なッ……」と絶句したような表情に切り替わった。

野盗は戦いに慣れた戦士だった。そのため、修道士の男の周囲をしっかりと見回していたのだ。この一瞬のうちに、彼はハナダイの困惑に満ちた瞳とも洞察眼をかち合わせ、自らも彼女と同様の気分に苛まれることとなっていた。


「い、いや、まずはお前の方だ……! オイッ! いたぞ!! 崖の下だ、そっちから降りろ!!」

「チッ、見つかっちまった。離せ!」


 修道士の男は激しく舌打ちして、ハナダイの腕を振り払った。野盗は一度崖の上に姿を消した。すぐにもこちらへ降りてくる。その時には仲間を連れてきているはずだ。

 ――逃げねば。逃げねば、復活のフレスコは俺にかかってる。


「あの人に追われてるの? ねえ、どうして島が燃えてるのよ、島で何があったの?」

「ユンユンユンユンうるせえな!! お前が騒ぐから見つかったってことがわからねえのかよ!!」


 ゴン、と、その時、海岸の岩に重たいものがぶつかる音がして、同時に彼ら二人の視界に、小舟が入り込んできた。

 修道士は驚いた顔をして、目の前に自らやってきた小舟を見下ろした。「え?」とつぶやく声が聞こえる。小舟は、ここからもっと進んだ先の砂浜に停泊していたはずだ。小舟の上には誰も乗っていない。それが、どうしてここに。

 ふいに、クイとハナダイの尾ひれが下方へ引っ張られた。オトメベラの指先が、海の中から飛び出して、ハナダイの尾ひれを掴んでいる。自分のひれを掴むオトメベラの手を、握り返すと、そのまま腕をひっぱられ、海の中へ引きずり込まれた。


「わああっ!」


 オトメベラは、ハナダイを海の中に連れ戻すと、やっと海上に顔を出して修道士の男に対面した。その胸にはハナダイを強く抱きしめたままで、表情は厳しく、修道士の男に敵意を露わにしている。

 当然だ。彼女は、わけもわからず彼に怒鳴られるハナダイの姿を傍から見ていた。オトメベラにとってハナダイが何よりも大事であることは、その険しくゆがめられた

眉間と、吊り上がった目尻によくよく表れていた。


 とはいえ、加えて言うと、オトメベラにとって大事なのはハナダイ自身のみではない。ハナダイの意思、ハナダイの望みを含めて、オトメベラにとっては叶えるべき大事なものであった。


「オトメベラ。この船、あんたが持ってきてくれたの?」


 オトメベラの胸に顔を埋められたまま、ハナダイは彼女の顔を下から見上げて問う。オトメベラはそれにごく小さな頷きを返すと、ハナダイを海に沈めてから、小船の船首側に泳ぎよった。


 オトメベラは、修道士の男の困惑した顔を睨みつけたまま、小舟の船首に巻き付けられたロープの端を手に取った。小舟は、海岸に沿う形で十分に寄せられており、いつでも乗船できる状態で留められている。


「お前も、さっきの人魚の仲間か? まさか乗れっていうのか」


 オトメベラの行動を見て合点のいったハナダイは、船尾の方に泳いで、船の後ろ側に手を掛けた。


「嘘だ、聖書外の人外だ。異端の怪物だ。なんで助けてくれるんだ。神よ……」

「乗って!!!!」


 ハナダイは、海上に顔を出して、立ちすくんだ男に怒鳴りつけた。先ほどまで口論のように争い交わしていた声、その声は「ユンッ」と響いたが、まるで戦にも勝る荘厳な儀式の開始を告げる鐘のように、男の細い瞳をカッと見開かせる。

 野盗はすぐそこまで来ている。

 修道士の男は、小舟に飛び乗った。

 彼の勢いは船の周囲の海面を荒々しく動かす。そのはず、小さな船体は転覆しそうなほど揺れたが、本当に転覆する前に、オトメベラがロープを引いて沖へ沖へと、もの凄い速さで進み始めた。

 船尾から、ハナダイも船を押し進める。二人の人魚を動力にした小舟は、瞬く間に燃える半島から遠ざかっていった。


「おお、おおおおおおおッ!!!」


 修道士の男が雄叫びのような声を上げる。海の怪物になったように高揚した声が、潮を含んだ風に乗って半島にぶつかる。崖を登って、夜空に響き渡る。


 男は、進む小舟の上で後ろを振り返った。遠ざかる海岸線に、松明を持った野盗が数人、立ち往生しているのが見える。


 いい気味だ、男は乾いた笑い声を吐き出す。しかし、船尾で目があった人魚の瞳を見て、その笑いも旅立ちの興奮と心底の無邪気さのそれにとって代わられた。


「あはは、あははははは!」


 ――ああ、綺麗だ。この人魚の瞳に映る俺の、その背後に広がる星空。燃える半島からじゃ煙に霞んでいた星空が、この激しく揺れる小舟の上じゃ、こんなにも綺麗だ。

 ――ああ、復活大祭の前の満月とは、こんなにも美しく、輝いているものだったのか。見ろよ、この色。春の満月。

 ――まるで、この人魚みたいじゃないか。

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