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第四十二話 炎上の海岸篇

満月の夜。この日、海面へ出たことが、ハナダイにとっての転機であったろう。

その日は昼間から快晴で、遮るもののない海上の空には、満天の星が輝いていた。欠けのない月は春らしいピンクゴールドに輝いている。


注記をさせてもらえば、この日は某教会における復活大祭の三日前であった。その週の日曜日には、聖地とされる半島に大勢の信者が集まり、また修道士が祈りの場に赴き、救世主の復活を祝う予定であった。


 オレンジ色に照らされた岩海岸に、一人の若い男が走り出てきた。彼は、ごつごつとして不安定な足下を、苛立ちに鋭く細めた目でざっと確認しながら、時折岩と岩の間のくぼみに足を取られたりして、危うげに波打ち際まで進んできた。

 

 ハナダイはその彼の様子を、少し離れた岩陰に隠れて震えながら見つめていた。人間が怖いわけじゃない。人間のことは、こうやって遠巻きになら何度も見たことがある。彼らが、人魚の存在に、案外と気が付かないこともわかっている。では、何に震えているのか。ハナダイは海に面する絶壁の上を見上げた。


 崖の上は燃えていた。海岸を照らすオレンジ色の光は、半島を燃やす炎が生んだものだ。崖の上には豊かに葉をつけた森があったが、今やその木のどれもが、熱く悍ましい落葉樹へと姿を変えられ、離れていてもこちらの鼻腔を焦がしてくるような、黒煙を上げている。森の中には、小さな修道院があった。そこで暮らす修道士たちがわらわらと外に出てきて、消火活動を始めたのが、崖上から聞こえる声でわかった。

海岸に張り出したこの一軒だけではない。半島にいくつもある修道院が、森が、畑が、まるで無差別のごとく燃やされている。半島のいたるところから、悲鳴に交じって、雄叫びのような声が聞こえてくる。


 先ほどから突然始まったこの騒ぎを、ハナダイは何も理解できないまま眺めていた。震えるハナダイの背中をオトメベラが守るように抱きしめた。しかし、ハナダイはオトメベラを振り返り抱きしめ返すことはできずにいた。炎を映して揺れる瞳は、海の方からでは半分も見えないにも拘らず、十分に攻撃性を示す惨状に、釘付けになっていた。

 オトメベラだって、ハナダイを抱きしめたのは、自身にも動揺があったからだ。腕こそ震えてはいないが、心臓は早鐘を打っている。まさか、ジジイが言ってた「満月の日に人間が騒がしくなる」っていう話は、これのことだったのか? 想像していたような祭りやなんやらの類ではない。確かに、今、海岸に人間が一人出てきたが、まさかハナダイが興味を持って近づけるような、余裕のある場面じゃないだろう。


「くそ、最悪だ。俺の時に被るなんて」


 先ほど海岸に出てきた男が、海の中に吐き捨てるように悪態をついた。炎の揺らめきがたまに彼の姿を映し出す。彼はクルクルと癖のある黒髪を持ち、背丈は人間の平均程度、とがった鼻と三白眼からは、言動も相まって気性が荒そうな印象を受けた。しかし、その全身には長袖の黒い修道服をまとっている。修道服の上には、何やら色とりどりの塗料で汚れてはいるものの、元は白かったのであろう、肩掛けのエプロンをつけている。彼は、この半島にある修道院で暮らす、修道士の一人なのだ。


「おい、船を出しとくっつったのは誰だよ。どこにあんだ、こっちか?」


 男が海に落ちるギリギリの所まで出てきて、首を左右に振ってキョロキョロとし始める。何を探しているのかと思って見ていたハナダイの肩を、オトメベラが叩いた。振り返ると、オトメベラは自分たちの背後を指さしてみせた。男がいる岩だらけの海岸から、半島の周りを二分ほど回るように泳いだ場所にある、小さな砂浜の海岸に、一人か二人が乗れるくらいの木の小舟が停泊している。足場の悪い場所を歩いて進めば、五分弱はかかるだろうか。男が探しているのがあれなら、方向的に、彼はまず、こちらに向かって歩いてくるだろう。ハナダイとオトメベラは、合点するや否や、同時に海の中に潜った。


 案の定、男は海岸を小舟の方向に向けて歩み始めた。少し進んで、船をしっかりと目視すると、機嫌の悪そうな一人言を再開しながら岩の上を進んだ。


「ったく、無茶なんだよなあ、一人で逃げろってんのはどういう了見なんだ? 別に、今回が初めてじゃないんだろ。じゃあなんで、もっとマシな対策をしとかないんだよ、教会の偉いさんはよお? ッ、痛ッて、海藻で滑りやがった。あー、自分の、足すら、使いもんにならねえのかよ!」


 男は体勢を立てなおし、パンパンに膨らんだ布袋を肩に担ぎ直す。固く雑多なものが当たり合う、がちゃんという音が、袋の中から聞こえた。


「画材! 一人で、道具だけ持たされてよお、壁画が守れなかった時はお前にかかってるって、小せえ布にでも代わりを描けってんのか。俺は別に、描くのはいいけど、描くのはいいんだけど、さ。お前らの信仰心ってのは、そんな小さい絵で代用して満足するようなもんなのかよ! んなこと俺に頼む暇があったら、本命の方を、死ぬ気で守っとけよ! 守れるようにしとけよなあ! 俺が面倒見てたのは、あんなに大きな壁画なんだぞ。タブローの類じゃねえんだぞ……」


 男の瞳に、涙が滲んだ。

 男が頭上を通り過ぎた後、ハナダイとオトメベラは海面から再び顔を出した。オトメベラは、一瞬潤んだように見えた男の瞳、その様子を脳内で再生し、胸を痛ませて彼の背中を見送った。


 一方、ハナダイは、男の進む先を目で追って、ハッと息を吸い込んだ。

 岩海岸から砂浜に辿り着くまでの道中には、一度、足場となる岩が完全に海の中に沈んでしまっている場所がある。つまり、半島の周りを歩いて移動しようとすれば、その一部分だけ道が途切れてしまうのだ。


 海中の岩の深度は浅く、明るい昼間なら、胸のあたりまで服が濡れることさえ気にしなければ引き続き歩いていくことも可能だ。しかし、この暗い状態では、足場がないのに気付かず、踏み外して溺れてしまうかもしれない。


 男は、その問題の場所に今にも差し掛かろうとしていた。


「! やばい!」

「あッ、おい!!」


 ハナダイは、反射的に男に向かって飛び出していた。

 突然、水を蹴って男の元に泳ぎ始めたハナダイに、オトメベラが思わず大きな声を上げる。


 その、彼女が上げた大きな声が、タイミング悪く男の注意を足元から逸らした。


「何今の音、……!」


 彼は声を上げることもかなわず、足場の途切れた境から海へ足を投げ出した。画材の入った布袋だけは咄嗟に背後の岩の上へ放り投げ、その代わりに、自分の両手を岩につき身を助けることはかなわなかった。


「フブ……!」


 勢いよく飛び込む形になったことで、海中で膝が曲がり、バランスを崩して深い場所にまで足が滑り、男の頭は一瞬のうちに海の中へ完全に消えた。


 しかし、同時に、ハナダイはその腕をしっかりとつかむことに成功していた。


「んバッ……!?」


 男が、空気を激しく吸い込みながら海面に浮上した。彼は、何者かに腕を掴まれ、否応なしに引っ張り上げられた事実の真相を、全く理解していなかった。ただ、不思議な力が働いて、命が助かったことだけが胸の中にあった。


「バッ、バッ、グオッ、オッ、ゴッ!」


 少し飲んでしまった水を、背中を軽く摩る手のリズムに合わせ、無惨な音を立てて吐き出した。吐き出すたびに、代わりの空気が肺の中に入ってきて、頭に血が巡り、視界が明瞭になってくる。

 頭を垂れる男のすぐ隣の場所に、ハナダイは海から這いあがってきていた。岩の上で尾を折りたたんで、男の方に体を向け、できることも、何をすべきかもわからないままに、弱っている人間を放っておけずにいたのだ。



 ――次第にぼやけのとれた目が、ハナダイの胸元を捉えた。長い赤毛が垂れる奥に、白くやわらかな肌を見て、男はハッと目を見開き、ハナダイから距離を取ろうとした。


「誰だお前! ここは女人禁制だぞ!」


 男と目が合ったハナダイは、相手の様子にひどく驚いて、彼の背中に当てていた手をびくりとひっこめた。

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