第四十一話 海の魔女篇――その二
それから、オトメベラは魔女に視線を戻すと、片眉をクイっと上げた。ハナダイを宥めた手で、今度は自分の横髪を掻き揚げる。
「小難しい言葉遣ってるが、要は唯一知ってる話の真似っこだろ? それじゃあ、ハナダイじゃなくても納得できねえさ。え? いい加減、欲しいもんは暴力でも奪っちまえるんだぜ」
「や、やだっ、怖いこと言わないでよ……! あるよ、ちゃんとした理由っ! 納得できる理由でしょっ? 納得、えっと……」
魔女は両手と首を激しく振りながらそう言うと、しばらく視線を泳がせてから、またぽつぽつと語りだした。
「私の先祖は、陸を嫌って、海に恋して、海底に来たの。人間が海の中で生きるのは簡単なことじゃないけれど、それでも今に至るのは、『恋』があったからなんだよ。それは大きな力で、他に何を以てしても抗えない欲求。ハナちゃんが人間になりたいと言う気持ちの中に、それはある?」
「こんなに何度も薬を頼みに来てんのに、ないと思ってんの……!? わたしが、本当に心から、人間になりたいと思ってないって……!?」
「ち、ちがう。人間になりたいかどうかじゃなくて、どうして人間なのか、かな。君が人間になりたいのは、うん、見てるから、わかるよ。でもじゃあ、どうして人間になりたいの? 陸に住む種族は沢山いるのに、どうして、わざわざ、よりにもよって、人間?」
「……どうして、って、それは、……」
ハナダイは息を吸い込み、続く言葉を飲み込んだ。まさか、「なりたいから」なんて……「ないたいからなりたい」なんて、子どもでも言わないようなこと、口に出すことはできない。
黙りこくったハナダイを見て、オトメベラが鋭く魔女に言った。
「……少し角が立つんじゃねえか?」
「そっ、そう? ごめ、優しく言ったつもりだったんだけど……」
「魔女さまは優しい! お前らが軽い気持ちで人間になっちまう前に、止めてやってんだからな!」
カサゴ少年は機嫌よく言って勢いよく水から飛び出し、岩の床の上を匍匐前進のようにして進んで、魔女のひざ元に這い寄った。
近寄ってきたカサゴ少年を撫でようと、魔女は嬉しげに手を差し出した。ほほえましい空気が流れようとしたが、その前に、ハナダイの「ハアッ」という荒い息継ぎが洞窟の中に響いた。カサゴ少年の言葉がハナダイの声を本格的に荒らげさせたのだ。
「軽い気持ちなんかじゃない!!」
少年の背中にハナダイが手を伸ばして捕まえようと追いかけ、少年と魔女が「ひいッ」と悲鳴を上げる。
濁点付きの母音で吠えたハナダイがカサゴ少年と同様に岩の上を腹で這おうとしたところで、やれやれとオトメベラが水の中に彼女を引きずり込んだ。
「あっ、こら! ったく、こんなとこ這ったら鱗が剥がれちまうだろ?」
「……ぷはッ! ねえ! 軽い気持ちってなんなのよ! あんたが言う恋っていうのは、そんなに大層なもんなわけ!? どいつもこいつも恋してるやつはみーんな軽い気持ちじゃん! そんなものがわたしに必要だなんて、到底思えないけどね! おい何とか言えよ! こっち来て一発殴らせなさいっての!」
「あーあー、一旦落ち着けって」
「あんたは、わたしがこんなこと言われてていいわけ!?」
「お前、おれの何のつもりなんだよ……」
「あるよ」
今度はオトメベラとの取っ組み合いになりかけたハナダイの耳に、少し大きくなった魔女の声が届いた。いや、声量の変化ではなく、距離の問題だったようだ。声に驚いて振り返ると、池の淵から拳二つも離れていない場所まで、魔女が近づいてきていた。
ワンピース型の下着の上に黒装束を羽織った魔女は、その背中で部屋の照明を遮り、下から見上げるハナダイとオトメベラの目には逆光が生む黒い影となって映った。気が弱く、いつも体を震わせている彼女は、二人の人魚にとって、このときばかりは大きな存在に見えた。
ハナダイは魔女の言葉を、頭の中で反芻した。「あるよ」。何が? わたし、この女に何を言ったんだっけ。
魔女は、ハナダイたちと目線の高さを合わせるべく、その場にしゃがみ込んだ。
「君には、『恋』をする必要があるよ。恋の相手が、人間か人魚か、陸か海か、はっきり決まれば、それが君の生の道しるべになるよ。だけど、それがない今の君に、人間になる薬は上げられない。ここから逃げたいだけじゃ、君の道は拓けないから」
「……なんで、」
「種族を変えるっていうのは、それだけ大変な選択なんだよ」
オトメベラの腕の中で、ハナダイの肌が粟立った。彼女の腹に腕を回していたオトメベラの皮膚は、彼女の変化をしっかりと感じ取ったし、これからハナダイが何か捨て台詞でも吐いてこの場から逃げ出そうとするだろうと予想できた。それを止めなかったのは、ハナダイの精神状態を思いやってのことだ。これ以上、彼女の思い通りにならない場所に留めておくより、魔女を傷つけてから逃げ出す方が、よっぽどハナダイのためになる。
ま、その捨て台詞がどんな内容になるかなんて、予想もしていなかったけど。
「あ、あんたなんかに、『恋』の何がわかるのよ! この、子供を学校にも行かせず閉じ込めて、エキスを搾り取ってるだけの癖に! このショタコン!!」
「ショッ……タコ……!!??」
「違うよ!! おいらが勝手にここに居座っているの! カサゴの毒をあげてるのもおいらの意思だし……!」
「ふん!」
どこか言い訳がましくて、誤魔化すには逆効果ですらあるカサゴの言葉を、最後まで聞くことなく、ハナダイは水しぶきを上げて海へと潜って行った。去り際、尾ひれで魔女に向けて水をかけるのも忘れない。
「わああ……」
情けない声を上げたのは、頭から海水を被った魔女だ。びしょぬれになってもまだ少し顔を赤らめている魔女と、健気にも魔女を安心させようと、「あいつの言うことは無視してくださいね!」なんて声をかけるカサゴ少年の的外れな滑稽さに、オトメベラは大きく声を上げて笑った。
「あっはっはっはっ! 最高だねえ、ハナダイってやつはさ! おれ、あいつがやりたいことやってる姿を見るのが好きなんだ。なあ、海の魔女よ」
オトメベラは体勢を立て直し、いつでも潜れるように池の真ん中で立ち泳ぎを始めてから、最後に魔女を振り返った。
呼びかけられた魔女は、濡れた黒装束から腕を抜く動作を止め、眉根を寄せてオトメベラを見た。
目が合ったのを確認し、オトメベラは真っ赤な唇をニッと引き上げて言う。
「もし、ハナダイのがほんとに人間に『恋』したら、薬、ちゃんと作ってやってくれよな」
「……オトメちゃん」
魔女が余計に、眉間に皺を寄せる。
それから、オトメベラは魔女の返答を訊かぬまま、海の底へと帰っていった。
§
魔女の家がある洞窟を抜けると、そのすぐ傍にある、死んだサンゴ礁が広がる岩場に腰かけて、ハナダイがオトメベラを待っていた。
「待たせたな。帰るか」
「いや」
「またまた」
「いやだな。こんな息苦しい田舎の海」
ハナダイは、尾の折り曲げた部分に両の肘をついて、頬杖をついた状態で上を見上げていた。
海の底に太陽の光が届くことはない。そんな場所から海面の方向を見上げても、空や地上の様子など見渡せるはずもなかった。
だから、ハナダイはいつも、わざわざ海面へと赴くのだ。地中海の端っこに当たる、ハナダイが言う通りの「田舎の海」では、地上の動的で明るい景色以外、特に娯楽がないために。
「なあ、ハナダイの。エーゲの海はそんなに悪いところかい? 水は綺麗で、サメも少ない。おれは、こんな条件のいい住処、そうそうないと思うぜ」
「でもここには、まともに話せる人魚だっていないじゃん」
そう言い切ってから、ハナダイはオトメベラの肩に乗った緑のロングヘアーを払い、空いた細い鎖骨に頭をぽんと寄せた。
「あんたは別よ。あんたはすっごく話が通じる。でも、あんただって、根は他の人魚と同じでしょ。価値観が違うのよ。わたしと、あんたたちとでは」
オトメベラは薄く微笑んで、ハナダイの頭を撫でた。緑の彼女の胸には、いつまでも満たされない穴が開いている。本当は、ハナダイの唯一の理解者でありたい。彼女の笑顔を、この自分が作ってあげたいのに、生まれもった考え方の違いは完璧に埋めることはできず、ただ、彼女に寄り添って慰めることしかできずにいる。
それは、一方通行の寂しさであった。
「ああ」
ハナダイがつぶやく。
「人間になりたい理由、本能、とかじゃだめなのかなあ」
「ははっ」
思わず、オトメベラは噴き出した。
「なんで笑うの? 恋も元々本能でしょ? 何が違うっていうのよ」
「さあなあ。でも、魔女さんは、本能の中でも『名前のある本能』を理由として求めてるんじゃないか? 名前があるものじゃないと、そりゃあ、他人に説明するときにわかりづれぇだろ」
「あーあ、まぁた『他人にわかるように』だ。わたしは、あんたらの方がよっぽどわかりにくいっての」
ハナダイは腰を上げ、サンゴ礁の残骸の上を一、二回ほど遊泳した。ハナダイがやりがちな鬱憤晴らしだ。岩陰から顔を出していた魚たちが、静かだった海水の変動に一斉に奥へと引っ込む。
しなやかに水をひっかいたピンク色の尾ひれ、それから、視界に広がる美しい赤い髪の毛に見惚れて、また、軽く胸を痛ませながら、オトメベラは言った。
「なあ、ハナダイの。今日も海上に行くんだろ」
「ええ? そのつもりだけど。止めないでよ、オトメの」
「今日ならさ、いつもの場所で、人間を見れるかもしれないぜ」
「え」
ハナダイの遊泳が止まった。
目を丸くして自分を見つめるハナダイを、オトメベラはいたずらっぽく上目遣いで見返して、その口角を、ニッと、横に引き伸ばした。
「うちのジジイが言ってたんだ。何年ごとの催しなのかは知らねえが、時たま、この時期の満月の日に、島の人間が夜まで騒がしくすることがあるんだってさ。あんたの言う通り、今日が満月の日だって言うんなら、運がよければ、人間が海岸に出てくるところを見られるかもしれねえぜ」




