第四十一話 海の魔女篇――その一
満月の日の昼のこと。つまり、先のページの翌日の昼。
キャンキャンとやかましい、少年の高い声が、サンゴ礁の奥に潜む洞窟の中に反響する。
「魔女さま!! またあいつらが来やがったよ! 不良のピンクと仲間の緑、ぐえッ!」
しかし、騒ぎ立てる少年の頭は、ハナダイの白い腕によって洞窟の入り口の岩壁に押し付けられた。小さな体に死んだサンゴの白い棘がチクリと刺さるが、少年の尾っぽや肌だって、過酷な自然界に負けじとチクチクのトゲトゲだ。
「誰が不良だ、カサゴ野郎。お前の方がずっと危険生物だろうが」
ハナダイはカサゴ少年の頭を押した勢いで、洞窟の中に体を侵入させた。カサゴ少年とハナダイ人魚のこういうやり取りは常のことだ。カサゴの人魚の体が丈夫で、ゴツゴツした岩に押し付けたくらいじゃあ傷もつかないことを、ハナダイはちゃんと知っているのだ。
「ひどいや! 何度も海面に出てるお前らと違って、おいらは何もしてないんだぞ! ここで、魔女さまを守ってるだけだ!」
「ほんとに酷いや。守ってる場所に入られてやがんの。邪魔するぜ、カサゴの」
「うぇっ、行かないで~~~!!」
深度深く、日光が届かないためにサンゴの数が減り、色とりどりの生き物たちよりも黒い岩の割合が増えて、小さな小魚よりも厳つい見た目の大魚が多く住む、そんな、海の深い場所。どこまでも下方へ続く岩壁に、人魚一人が泳いで通れる程度の穴が開いていれば、それが『魔女の家』に通じる入り口だ。
奥に向かって横方向に続く洞窟の中を、ハナダイは両手で水を搔きつつ進む。その後ろをオトメベラ、さらに後ろを、カサゴ少年が丸い腹を引きずりながら進んだ。洞窟の中はもちろん暗いが、発行器官を持つクラゲやエビが人為的に配置されているため、壁にぶつかるようなドジはしないのだ。行き止まりまでくると、今度は上に伸びるようになった道を、三匹の人魚は最後まで泳ぎあげた。
「ぷはッ」
「フィ~!」
「んあッ。魔女さま、ごめんなさい!」
上方へ進んだ先で、ついに水面から顔を出せば、人魚たちの呼吸法は、すぐさまエラから肺に切り替わる。そこには空気があるのだ。
泳ぎ着いた先は、海中の洞窟に不思議と存在する、池に通じているのであった。そこは岩のド真ん中にぽっかりと生まれた空間で、そのため、周囲を完全に閉鎖されたそこには、海中であるにも拘らず空気が溜まっている。ドーム状の岩屋根の下、床の中央を丸く切り取る小さな池が、海中とつながる唯一の出入り口だ。
カサゴ少年はバシャバシャと音を立てて床に這いあがり、尾ひれすら空気中にさらけ出して、シャチホコのような姿勢になりながら、洞窟の主に必死に謝罪を申し入れた。
魔女と呼ばれた、二本足を持つ女性は、袖広の黒い上着を翻し、人魚たちを振り返る。
……と、思いきや、壁際に置かれたクローゼットの陰に走って逃げ込んだ。
「おい、魔女。あんたと同じ生き物になれる薬をもらいにきたぞ」
ハナダイは、尻を床にのし上げて、池のふちに腰かけた姿勢から、肩越しに魔女の方を見た。魔女は、びくりと肩を震わせ、おそるおそると、こちらに顔を覗かせる。それから、か細い声でハナダイに答えた。
「だ、ダメって言ってる、でしょ。人間に恋をするのが、薬をあげる条件」
そう言って、膝を抱えて座り込む魔女。魔女は、まぎれもなく人間だった。しかし、その口から出たのは人魚の言語だ。彼女は海の中に生き、人魚たちへ魔法薬を提供することで暮らしている、不思議な力を持った人間なのだ。
気弱な性格の彼女を、ハナダイは拳で床を叩きながら責め立てる。
「だから無理だって言ってんでしょ!? 明らか無茶なの、わかってんの!? わたしが会える人間なんて、あんたくらいしかいないんだから! 何!? あんたに恋すりゃいいわけ!? はい、した! 恋した! はい、薬ちょうだい!?」
「そ、それはダメ……! そんなの、本当の恋じゃない……!」
「本当の恋ってなんだっつーの! 何様なんだよ、てめえはよ!」
「ヒィ……!」
「黙れ! 魔女さまを怖がらせるな不良め!」
「うるせーな、どいてなさいっての!」
魔女の悲鳴を聞いたカサゴ少年がハナダイの腹に飛びつき、ついに二人は取っ組み合いを始めてしまった。見かねたオトメベラがハナダイの腕にそっと掌を乗せ、「まあまあ」と二人を引きはがす。
「相手は子供と、弱い人間だぜ、ハナダイの」
「でも」
「ああ、大丈夫。あんたの気持ちはわかんぜ。おれも不思議っちゃ不思議なんだ。なあ、薬のよ。なんでこいつの頼みを聞いてくれねえんだ? 伝説の女には薬をやってたじゃねえか。おれら、それを知ってるから、あんたに薬をねだりに来てんだぜ」
オトメベラは、ハナダイの尾ひれに肘をかけるようにして海面に顔を出していた。膝枕をねだるような姿勢はまるでハナダイに甘えているようだが、実を言えば、ハナダイがこれ以上、他人の家で暴れないようにという配慮もあった。
魔女は、素行不良な二人の女人魚について、「オトメベラの方は、ハナダイに比べれば、まだ話せる人物」と認識していた。そのため、クローゼットの陰から再び顔を出した魔女は、少しだけ池に近づいて、先ほどよりやや落ち着いた様子で話し始めた。
「伝説の女って、王子様との恋に破れて泡になって消えた、あの人魚のことだよね。あの、まあそりゃ、その時、人間になる薬を作ったのはうちの血族の人だけど、別に、私は、その張本人じゃ、ない、からね。私、まだ百年も生きてないんだよ。君たちからすれば、意外かもしれない、けど」
パサパサだが豊かな黒髪を持つ魔女は、雑に放置した身なりのせいで多少老けて見えるとしても、せいぜいまだ三十代である。ハナダイやオトメベラよりもほんの少しだけ年上に見える程度だが、実際のところ、人魚は人間よりも圧倒的に長寿であるので、双方の実年齢と外見年齢は逆転した状態なのである。人魚にとって、人間の年齢感覚を推し量るのは難しい。彼女らは、数百年前の伝説に登場する魔女と、目の前に居る魔女を、同一か、少なくとも知り合いだろうと考えているところがあった。
もちろん、魔女はそれを否定する。
「だから、伝説の人魚には薬をあげたでしょって言われても、困る、わけ。私があげたわけじゃないしさ、そんな法外な薬、そう簡単にあげられないし」
「だとしても、なんで条件が『人間に恋する』なのよ!?」
「判断が難しい薬だから……、その、前例を踏襲してるだけ」
「はああああ~~!?」
口を開けば声を荒らげるハナダイを宥めようと、オトメベラは彼女のピンク色の尾をポンポンと叩いた。




