第五話 掃除は上から篇
掃除の基本は上の方から。しかし今回の場合なら、先に床の埃を掃いたとしてもよいだろう。埃に覆われて真っ白いフローリングは、歩くたびに黒く足跡がつく。これでは靴が汚れてしまって、のちのち、辺りを余計に汚すことになるだろうから。床をある程度綺麗にしてしまって、その後、天井に取りかかろうか。
少し長丁場になりそうだよ、と、天井の梁にぶら下がる愛しの僕たちを見上げる。小さなコウモリたちは、天井の四隅でじっとして、その小さい体でランタンを持ってくれている。
吸血鬼は、たった一人で大食堂を掃除することを申し出た。青年は最後まで何か言いたげな様子であったが、既に人魚を抱えてしまっていたのもあって、結局は吸血鬼の言う通り、自室に引っ込んでくれたようだ。ゾンビ嬢もしばらくは大食堂の前でうろうろしていたものの、青年に手を引かれて去っていった。
食堂のテーブルに懐中電灯を上向きで置くと、火のついていないシャンデリアに光が反射して、部屋全体が明るく照らされる。つくづくよくできたシャンデリアだ。金属の掘り込みだけで発砲に光線を伸ばす。もし銀でできているなら、長期間放置されていたのだし、空気と反応してもっとくすんでいるだろう。ということは鉄か何かだろうか。シャンデリアの反射材には、多くの場合は水晶を使うのではなかったかな。浄めの効果の水晶を。館には、吸血鬼ら魔物の敵になるようなものは、はじめから置かれていなかった。優しい設計。
大食堂に入って右手には、厨房へ続く扉があった。厨房の掃除用具入れからモップを取ってきて、一通り床を撫でる。長い柄の先に長方形の板が横向きについていて、そこにゴミを絡めとるヒダが沢山生えているやつだ。人魚たちが濡らした場所ではその水気さえも吸ってくれる。しかしすぐに埃だらけになるな。時間もかかるし、重労働だ。
吸血鬼は、片手を横に一閃させた。それを合図に、服の中からコウモリが八方に散っていって、天井を雑巾で拭き始める。床と同時にやっていこうね。
床の大半はフローリング。部屋の中央に鎮座するテーブルの下にはワイン色の絨毯が敷かれているが、見える部分は埃に塗れ、毛も寝てしまっている。
天井は洋館にしては珍しく、木製の梁がむき出しの状態になっていた。縦横に二本、十字に交差して、中央の交差部分に例のシャンデリアが釣り下がっている。壁との境にも、それぞれ四方を囲むように梁が走る。
ふと、床の隅に埃でない何かが落ちているのに気づいた。白い何かの欠片だ。石膏? 見上げれば、丁度その上の天井の塗りがはがれている部分がある。天井の漆喰がはがれたのならなかなか直すにも骨が折れるぞ。しかし、はがれたその向こう側に人の手のようなものが見えて、吸血鬼はヒッと息をのんだ。一人でよかった、声は出てないか。
天井画である。なんのことはない、塗りつぶされているのだ。せっかくの絵が、白く。あえて。
「君たち、ヘラを持ってきて。天井の漆喰をはがしてくれないか」
床を掃いたら暖炉。大食堂に入って左奥に設置されている。アラベスク風の装飾が施された、まるで彫刻作品のような代物だ。中には灰が溜まっているが、そっちはひとまず放っておいて、暖炉の周辺を磨いていく。暖炉の上には大きな楕円状の鏡が、こちらも縁にレリーフ装飾が施されて嵌っている。左右に裸体の男女……背中にコウモリの羽が生えている。醜い顔の、悪魔か。魔物か。
「趣味が悪いね。主は異端信仰者だったのかな」
暖炉の左右、それから暖炉より左手の壁には大きな窓が嵌っていたが、それらは全て木の板で塞がれている。こういうのをはがす仕事は、できればパワータイプのレディ・アンデッドとかにやってもらいたいんだけどな。私が拗ねて、帰してしまったから。
長テーブルには、元は白かったろう黄ばんだテーブルクロスが敷かれる。上には何も乗っていないので、いっそ一気にはぎ取ってしまう。テーブルの周りには、長辺にそれぞれ五掛け、計十掛けの椅子が添えられており、こちらも雑巾で丁寧に拭っていく。肘置きに重厚な装飾文様。手触りのいい木だ。
テーブルの短辺には、暖炉に背を向ける方にだけ、椅子が置かれている。いわゆる上座。館の主人の席である。吸血鬼がゾンビ嬢を初めて見つけたとき、彼女は黙して、この席に座っていた。
きっと遥か昔と言っていいだろう。いや体感では大した時間ではないが、例えば青年に話す時でもあれば、昔々と言ってしまうだろう。
吸血鬼が初めて「極夜の館」に来たとき、館には彼女しかいなかった。逆に言えば、吸血鬼が来たとき、既にゾンビ嬢はいたのだった。初めての場所に来れば、一通り探検するだろう。避難経路を確認するわけじゃないが。その探検の際に、たまたま、彼女を見つけたのだ。
音が聞こえたとか、気配を感じたとかで、この食堂に入ったわけではない。彼女は、死体らしくというか、じっと動かず、目の前のテーブルを見つめていたから。何の料理も運ばれてこない、このテーブルの上を。
吸血鬼は、ゾンビ嬢は元々館の人間だったのではないかと睨んでいた。その理由は二つ。一つは、――自分のことを棚に上げて言うことになるが――彼女の服装である。フリルのボンネットに、同じく、華美なドレス。彼女の手錠の事情は知らないが、服装だけ見るのなら、英国でマナーハウスが貴族の屋敷として改造されていったその全盛期の時代に被るのではないか。そうなれば、所謂「お嬢様」であったはずの彼女が主人の席に座っていたのに疑問が残るのだが。それでも、彼女が館の人間であったことを示す決定的な証拠がもう一つ、図書室に――。
ズズッ、と、主人の席を引いたと同時に、ガチャ、と、食堂の扉が開いた。
ゾンビ嬢が、小さく開いた扉の隙間から、こちらをじっと見つめている。死体にふさわしい硬直した様子は、丁度回想していた記憶の姿に似通っているとも言えなく無かった。要は、言いたいとは思えないのだ。彼女は吸血鬼が食堂に入ってからもしばらく、テーブルから視線を外さなかったが、ひとたび吸血鬼の姿を認めると、不思議そうな顔をして、次第に後ろをついてくるようになった。今の彼女は、吸血鬼に素直に接し、表情を変えるようになった少女なのである。
食堂の入り口に留まったままこちらを窺う彼女は、ほとんど動かない表情筋を震わせて、上目遣いに、不安を訴えてきている。
「さっきはすまないね、レディ・アンデッド。青年に綺麗にしてもらったのかい?」
ゾンビ嬢は返事をしなかった。しかし、それは反抗ではなく、反省して怯える仔犬のようであるのがわかって、吸血鬼は眉を下げて笑うのだった。
「こちらこそ言いすぎてしまったよ。あれは君が悪かったのではなく、私が勝手に拗ねただけなんだ。君が、私の言うことを余りに無視するものだから……」
びくっと震えて扉を閉め始める少女に、彼は違う違うと手を振って、また微笑を浮かべ直す。
「私は、君が私に、小鳥のようについてくるものだと、思いこんでしまっていたようで……。人魚さんと自由に振る舞う君を見て、まるで親のような気持ちで、寂しく思っただけなんだよ。よかったら、こちらへきて、仲直りとしてくれないかい? 本当なら、そのまま掃除を手伝ってくれると、嬉しいんだけど」
吸血鬼の言葉に、ゾンビ嬢は、大食堂の扉を大きく開け放った。
§
「やべえ、一晩でよくここまで綺麗にしましたね」
おはようございます、と青年が大食堂の扉を開ければ、そこにはもう吸血鬼、ゾンビ嬢、「うごくシャワー水槽号」に入った人魚が勢ぞろいしていた。
綺麗に磨かれたシャンデリアと燭台によって、大食堂は燃えることなく明るく照らされている。大きな窓を塞いでいた板は取り払われており、外がそもそも暗いために、外光を取り込むようなことはなかったが、それでも館の外が見えるということに解放感を覚えた。
テーブルにクロスは敷かれていないものの、飴色の木目が綺麗に見えるよう、つやつやに磨かれており、清潔感がある。
「俺、どの椅子に座ればいいんすか? 最初見た時は臭いもひでえしどうしようかと思いましたが、綺麗になってみると、こんなところでご飯食べれるなんて最高っすね~。……あの、なんかあったんすか?」
はしゃいでいるのはどうやら自分だけらしい。一通り部屋を見回したのちに、やっと気が付いた。神妙な顔をした三人に眉をひそめて問えば、吸血鬼が雨でも確認するように、掌を上に向けて答えた。
「まあ君、少し落ち着いて上を見上げてほしいんだが。この絵を見てから、ここで食事をとるかどうか、決めてくれよ」
「絵?」
青年は、その場で素直に、首ごと目線を上に向けた。