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第四十話 セレーン篇

 吸血鬼が「一旦大広間を出よう」と提案した理由は、冗談でもなんでもなく「腰かけるところがないから」である。吸血鬼が提案しなければ、自分が提案していただろうと、ミカは思う。あのカビ臭い部屋で床に座って本を読むのは、どうにか遠慮したかった。それくらい、四冊の本はそれぞれ分厚いのだ。


 エリザベスが言うには、この本には特定個人の「半生」が記録されている。人の生き様を描くのに、まさか床に座って読める程度のページ数で済むはずはない。


 というわけで、三人はサロンのソファーに移動していた。普段は二人掛けで使っている革張りのソファーに、今日は真ん中に吸血鬼を置いて、左にエリザベス、右にミカと、三人並んで座っている。これから読まんとする「セレーン」の本は、吸血鬼の膝の上だ。彼の音読で進める予定である。疲れたら得意の速読でページを飛ばして、重要そうな出来事が起こったあたりから再開することにした。


 おやつの時間を回ったので、テーブルには紅茶とお菓子を並べている。湯気が消える前に飲み干したいところだが、さて、適度に休憩を挟める内容だろうか。だって、あのセレーンさんの半生だ。ジェットコースターに違いない。

 おやつの向こう側には、ミカの本と吸血鬼の本を並べて置いていた。エリザベスの本は彼女の膝の上だ。そんなに大事に抱かずとも、誰も盗んで読みやしない。


 大広間の扉は閉じてしまった。エリザベスが、本の持ち主が追いかけてくると嫌だから閉じておこうと言ったのだ。ミカもそれに賛成した。なんだかんだ、ミカもまた、ウィジャボードの幽霊を見た(なんなら触れられた)側なのでちょっとだけ怖かったし、館全体がカビ臭くなっても困るし。多分、大広間での用は済んだし。


「まずは、最初から読むね」

「あ゛あ、始まっでじまう~。ごめんなざい、セレーン……」

「読むって決めた時点で、君の言う友情は裏切ってるでしょ」

「なんつーこと言うんすか。気にしてるだけマシっすよ。ねえ姉さん」

「ぐッ……!」


 吸血鬼が表紙を開き、最初のページを見た。右側に躍り出た1ページには、「Σ(セ)ελην(レーン)」の文字。誰も特に何も言わず次を開くと、左のページに文章が、右のページに挿絵が現れた。


「やった、絵がある!」

「幻想的な風景に、肉感のある人物描写だから、近世くらいの画風だね。だよね、レディ」

「はい。わだぐじが生きでいだ頃に流行った絵の感じでずわ」

「随分気合の入った絵日記だね」


 黒のインクのみで描かれた挿絵は、線の重なりを使って細密に描写されていた。五本の指を絵の上に滑らせれば、ペン先で紙をひっかいた凹凸を感じられる。リトグラフのような版画を張り付けたのではなく、誰かがこの本に、自分の手で描いたということだ。


 絵をなぞる吸血鬼の手をミカが掴んだ。ミカの目はじっと挿絵を見つめたままで、吸血鬼の手を自分の側へ引き寄せる形で絵の上から退かす。


「そんなことより、この絵、人魚の絵っすよね?」


 絵の中央には、髪の豊かな女性の上半身に、魚の尾に似た下半身を持つ人物の見返り姿が描かれていた。一般に人魚と呼ばれる種族の彼女は、とがった鼻をつんと上に上げ、髪を掻き揚げて空を見上げている。

 本のタイトルに加えて、その気の強そうな仕草から、三人の見解は言葉なしに一致した。

 ミカが、上目遣いに吸血鬼とエリザベスへ同意を得ながら言う。


「セレーンさん、っすね」


 セレーンと思しきその人魚は、切り立った山肌を背景にゴロゴロと転がる大きな岩々の一つに腰かけて、尾ひれを海へ浸けていた。


 吸血鬼が朗読するところの話では、描かれた場所はエーゲ海に突き出た半島にある海岸、半島全域が一山に数えられるような地形であって、砂浜も少なく、崖に囲まれて、人間からは聖域と呼ばれる場所だそうだ。この場所には、普段から海に出るような人間がほとんど住んでない上に、人魚が腰かけられる岩も多ければ、万が一人間が来た時にも、そこの岩に隠れれば済むという、海上に出たい人魚にとって都合のいい場所であったようだ。


 時は夜。セレーンが眺めているのは月だ。単色の絵の中では、空海の境なく黒に塗りつぶされたところに白い円が浮かんでいるだけだが、実際の彼女の目には、その円は眩しい金色に見えたことだろう。


§


 障害物がなく、上にも下にも開けた世界は、今の時間、真っ黒な劇幕だ。でも、何も面白みがないわけじゃない。天空にきらめく星は波の中にまで映って、まるで取り放題の真珠畑だ。月だってあんなに遠いのに、こっちにおいで、触れてごらんとでも言うように、水面へ光の道を通す。泳ぎが得意な自分なら、水面を丸ごとかっさらって、空をものにできるかもしれない。


「なんてね。空、盗れんわね。人魚には」


 そう、言葉をつぶやいてしまったので、セレーンの美しい歌声はここで止まってしまった。「ユ」という音を中心としたメロディーによる歌。歌詞がないわけではなく、人魚の言語が「ユ」と音階で構成されているものなのだ。だからさっきの、「なんてね」から始まるセリフも、本当は「ユ」やら「ウ」やら「キュ」やらといった音の形を取るが、記録を残すのに「ユユーユーウーユキュ」だとか書いてもわからないので、わかる言葉で伝えよう。


 その時、セレーンが尾ひれを浸しているあたりの海面が丸く波打った。水しぶきを上げて飛び出したのは、モスグリーンの髪の人魚である。海水の中では緩くウェーブする長髪も、空気の中に出てきた今は濡れそぼって真っすぐに下り、まるで頭から海藻を生やしているようだ。


「ハナダイの、また歌ってたろ。だめだ人里で歌っちゃあ。特に夜は音が響くから」

「うるさいこのオトメベラ。誰も来やしないでしょ。ここで人間なんか見たことないし」

「心配してきてやってんのがわかんねえか? このハナダイ」


 ハナダイと呼ばれたこの人魚、いずれセレーンと呼ばれるが、今の時点ではまだ自分の名前がなく、便宜上の呼び名がハナダイだ。オトメベラはハナダイが座る隣の岩にのし上がり、友人の乾ききった赤毛を触る。


「あーあ、こんなに乾燥しちゃって。いつからここにいた、てめえ」

「わかってんでしょ。あんたの視界から消えた時からよ」


 ハナダイはピンクの尾ひれで勢いをつけ、尻から海へ飛び込んだ。少し泳いだところで、オトメベラを振り返る。


「体が乾ききるまで岩盤にいたけど、今日も人間にはなれなかったわ」

「あ~……、無理だっつってんだろ、そりゃあ。人間は人魚の干物かよ」


 オトメベラが岩の上から身を乗り出して応じる。ハナダイは海面に顔だけを出した状態で空を見上げながら、背泳ぎで一周ぐるりと回ってみせた。

 波の上に描き出されていた、取り放題の真珠も、月への道も、全て揺れて掻き消える。


「いくら歌ってみても、セイレーンにだってなれない」

「そら、セイレーンと人魚は全然違うんだし」

「なんで? 人間は、人魚のことセイレーンだと思ってるのに?」

「おいそりゃ、人間から見たら、下半身が魚だろうが鳥だろうが、全部等しく『人間以外』だろうさ」


 オトメベラは頭を掻いた。そうやって発言を迷ってみたが、自傷行為のように次の言葉を待つハナダイの前では、それを言わないことは不可能だった。オトメベラは、力を振り絞って言った。


「だからさ、魔法でもなきゃ、種族は変えられない」

「ふん」


 ハナダイの人魚は、鼻を鳴らして黙りこくった。背泳ぎで回るのもやめてしまって、ただその身を海面に投げ出している。

 少しでもハナダイの気持ちに寄り添えないかと、オトメベラは空を見上げる。


「月、まん丸で綺麗だなあ」


 彼女は、「海の中では、月ってゆらゆらぼやけて見えるから」と続けるつもりだった。しかし、先にハナダイがあざ笑うような口ぶりで遮った。


「まだまだまん丸じゃないわよ。ちょっと欠けてる。満月まで後一日ってとこね」

「ほおう、それはそれは……。毎日長時間見つめてる人は違いますなあ」

「ふんだ」


ハナダイは一度海中に潜り、再び現れた。頭から髪から顔の横のエラまで、すべてぐっしょり濡れている。


「何してるの。迎えにきたんでしょ。帰るわよ」

「はいはい。ご随意に」


 ハナダイに急かされ、オトメベラもまた、海に飛び降りた。二人並んで深くへ潜っていくと、オトメベラの緑色から先に海に同化して、ハナダイのピンクだけが残る。やがて、ハナダイもまた海の暗闇に消えてしまえば、この海岸からは、人魚の痕跡など何一つなくなってしまった。これでは、まさか人間に見つかるはずもない。

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