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極夜の館―怪物(まよいご)たちのほのぼの日常日記―  作者: 畔奈りき
記憶の水の中で溺れ死んでごらん
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第三十九話 四冊の本篇

――かちゃ。


 しかし、期待は静かに阻まれた。

「ミカ」の名前を冠する本は、表紙を開けないように施錠された小さな錠前の金属音を軽く鳴らしただけで、その中身を読ませる気配は、どうしようともなかった。

ミカの行動力は、得体の知れない本の状況を把握するという意味では事態を少しだけ進展させた。けれども、目的に最短のルートでたどり着く道は閉ざされたのだ。


「開かない」


 ミカが吸血鬼を見上げる。吸血鬼は、「ジャクソン」と名前が書かれた本を手に取って、淀みない動作で自ら表紙を開こうとした。


「ほんとだ。開かない」

「飾りが豪華で気づきにくかったっすけど、鍵がついてるっすね」

「日記みたいだ」


 そう言ったところで、吸血鬼は、ふと表紙の名前に目を落とし、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。それから、小さな錠前を指で緩くいじり、ミカに向けて言うでもなく、ぽつり呟く。


「日記なの?」

「誰の?」

「私たちの」

「俺書いてないっすけど」

「私だって」

「観察日記かもじれまぜんわ。日記は日記でも」


 エリザベスは、震える手で左端の本を取り上げていた。右手で裏表紙を支え、左手の親指を本の小口に掛ける。親指の下に位置する留め具に、錠前はぶら下がっていないように見える。


 先の二人に反して、エリザベスの本は、何の抵抗もなく静かに開いた。


「あっ……?」

「開いたね……」


 ミカと吸血鬼は息を呑んで、紙の端っこが黄ばんだページに目を走らせるエリザベスの様子を見守った。次々に読み進めてページをめくると思われたエリザベスの手は、ところが、二ページほど進んだあたりで表紙を裏表両方向から、勢いつけて乱雑にパタンと閉じたのだった。


「ふわわわわああああ」


 エリザベスの口から、今まで聞いたことがない鳴き声が漏れ出た。鳴き声というか泣き声というか嗚咽というか。ビブラートがかかっている。その様子を見て、吸血鬼とミカは息を大きく吸って目を見張った。エリザベスの全身は羞恥にうち震えていたのだ。それは、さながら、中学二年生時の日記を結婚式の余興で音読された時のような。

 もし、彼女に血が通っていたのなら、その顔は熱を帯び、赤く染まっていただろう。


「姉さんが生き物じゃないみたいな動きしてる!」

「生き物じゃないんだけどね、確かに」

「ぞ、ぞうでずわ! わだぐじは死んでいる人なので、これはわだぐじのお話ではございまぜん! ぞう、ぞうでず! ざようなら!!」


 エリザベスは半ば叫びながらそう言って、危険物を扱うような手つきで本を拷問台の上に戻す。再びそこに置かれた本を、今度は吸血鬼が検分しようとして手を伸ばした。


「一体何が書かれていたの……」


 しかしその前に、取り乱したエリザベスが、忙しく本を取り戻す。


「何も書がれでいまぜんげれども!」


 そう、怪しくも声を張り上げて、緑色のドレスの胸に、重厚な本をぎゅっと抱きしめた。その位置から無理やりにでも取ろうとすれば、セクハラになってしまうだろうな……と、吸血鬼は想像を巡らせる。ミカにはまだバレていないだろうか、能天気ながら吸血鬼は、この状況を少し面白がっていた。というのも、先ほどのエリザベスの奇声が、吸血鬼の腹筋に案外と効いていたのだ。

 ミカが吸血鬼を不審な目で見上げる。吸血鬼が、エリザベスをからかうような声音で話し始めたせいだ。


「え~、何も書かれてないってことはないでしょ? うーんそうだなぁ、さっき、『これはわたくしの話ではない』って言ったみたいだけど〜……、じゃあ何? 誰の何が書かれていたの?」

「答える必要がありまずが!?」

「そりゃ、言えないような内容ならば、無理にとは言わないけど?」

「え。えっと、でも、開く本って、それだけじゃないっすか……? 何が書かれていたのかは、さすがに気になるっていうか。あでもその、姉さんが本当に嫌なら、別に」

「その通りだミカ、強要しちゃいけない。しかし、そうなるとまあ、残念ではあるよねぇ。何のためにこんな臭い部屋に来たのかわからなくなる」

「臭い部屋っでいわないでぐだざい。わだぐじの館でず」


 嫌みったらしい吸血鬼と、素直な好奇心が隠しきれないミカ。とうとうエリザベスがふてくされて、ぷくっと頬を膨らませた。乾いた頬肉が突っ張って、ピキと一瞬音を立てる。


「あわわ……ほっぺ平気すか?」


 と、ミカがその頬に手を伸ばした。エリザベスは二、三往復、ミカに頬を撫でるのを許したが、その後すぐに顔を元の硬直状態に戻し、一歩下がってミカから距離を取った。上から本を覗きこまれることを防ぐためだ。

 その表情は、今や決死の覚悟の兵士に見える。

 覚悟を抱えたまま、エリザベスは再び本を開いた。


「最後の方のページなら……」


 そう言って、彼女がミカに見せたのは、言葉通り、本の最後のページだった。左側のページに、横書きの文章が二行で収まっている。右側のページは白紙、さらにめくれば、裏表紙だ。

 ミカは、その短い文章を黙って見つめた。後ろに近づいてきた吸血鬼が本を覗き込み、文を読み上げる。


「『もう彼女は人間だ。囚われる必要はない』」

「……どうでしょう」

「なんにもわかんないっす……」

「そうだよね。やっぱり、この前のページを見ないと……」

「いやっ!」


 左のページに手を伸ばしかけた吸血鬼の手を、エリザべスがはたき落とした。


「いやって言っても、どうしようもないことはわかってるでしょ?」

「だって……」

「……まあ、姉さんが嫌なら、無理に見ることもできないっすよ。そうだ、セレーンさんの本もあったでしょ。あっちが開くかもしれないし」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛そっちも良くないでずわ! 日記の中を見るには、合意が必要だど思いまずの!」

「日記」


 吸血鬼は、エリザベスの言葉に目敏く反応した。


「やっぱりそれ、レディの日記なんだね」

「やっでじまいまじだわ……」

「え、日記? それなら別に、見せてくれてもいいんじゃ……」

「だ、だめでずわ。子供に見ぜられるものではございまぜんので!」


 今度は、ミカがぶすくれる番だった。


「別に子供ってほど子供じゃないすけど」

「え゛え、わがっでおりまずども。でも、でもね、わだぐじ嫌なんでずの! ごの本、わだぐじの半生どいうものが詳細に記録されでいまずわ。もちろん、わだぐじが書いたものではございまぜんじ、文体がらじで他人から見たわだぐじの過去の記録でずが、でずがだがらこそ! 恥じるべき人生の垢が惜しげもなくさらされでいるんでしょう! 観察日記やら経過記録やらというものは、詳細さが命ですがらねぇ! ええ!!」


 ミカは、吸血鬼に視線を送った。

 なんなのこの人、とまでは親しさゆえに言わないが、同様の意味を含する視線に応えて、吸血鬼は溜息混じりに解説を加える。


「……要は、恥をさらすのが嫌ってわけ。レディは、生粋のレディだからね」

「読まれたら恥ずかしいって、そんなものが、なんでここにあるの?」

「ふむ。……誰が書いた本なのか、って点は脇に置いておくとして、ここにあるのは、君に読ませようと思ったからじゃないのかい? ミカは、勝手に大広間に来たわけじゃないんだし。君は、ウィジャボードの幽霊とやらに言われた通りに来た、そうでしょ?」

「うん。……やっぱり、どれかの本は読まないと」


 そう、まっすぐな瞳で言うミカの言葉に、それまで保身を図る気持ちばかりが強かったエリザベスの胸中で、後ろめたさが勝った。エリザベスは、自分の本をぬいぐるみのように抱きかかえてうつむいた。


「わがっでおりまずども……」

「……セレーンさんの本にも、錠前が付いてないね」


 吸血鬼は、拷問台の上から最後に残った一冊を手に取り、開かないままに観察していた。本には、自分の半生が書かれているという。

 エリザベスが見せる、自分の過去について知られることを非常に嫌ったゆえの行動は今に始まったことではなく、そういう一面は、特に庇護対象であるミカに対して現れていた。逆に言えば、過去を秘匿したいという彼女の気持ちの強さは、ミカよりも吸血鬼の方が知っているのだ。せめてどれか一冊でも、ここにある本を読めるなら、エリザベスに無理を強いることもないとは思った。


「自分の過去を苦しみながら晒す? それとも、合意はない上で、他の人の日記を読む? レディはどっちがいい?」


 無理を強いることもない、とは思ったが、そうなれば数少ない選択肢を前にして、グダグダと時間を使いたくもなかった。

 二択に迫られたエリザベスが緩く首を横に振る。


「……ぞれは、だって、後者はセレーンに悪いでずがら……」

「じゃあ、自分の読ませてくれる? どれか読まないと、今の状況についても、開かないミカの本の中身についても、何の推測も立てられない。わかってるって言ったよね」

「ゔ……」


 エリザベスは、なにも乗っていない右手を差し出した。セレーンの本をよこせと言うのだ。


「……後者を選択しますわ。セレーンのを読まぜでもらいまじょう。でもせめて、まずは親友であるわだぐじに、中を確認さぜでぐだざいまぜ。わだぐじなら、既に本人から過去の話を聞いでおりまずがら」


 吸血鬼はエリザベスに、黙ってセレーンの本を渡した。


 エリザベスがセレーンの本をめくっている間、エリザベスの本は、ミカが自分の本の上に重ねて抱えていた。開くことができるのに、開いてはいけないと言われたその本の表紙を間近で観察し、ミカはごてついた装飾が単なる幾何学模様などではないことに気が付く。

 表紙に彫られた金のレリーフ飾りは四辺を囲む枠に過ぎず、枠の中にあたるメイン飾りの方には、金のみでなく、赤や青、緑の宝石が埋め込まれている。その赤青の宝石の群れはモザイク画のように、集合して何かの姿を象っているのだ。


「赤いドレスの女のひとかな」


 あれ、俺の表紙には何が飾られてたんだっけな。二冊の上下を入れ替えて自分の本を確認しようとしていたところに、エリザベスの背中をぼんやり見ていた吸血鬼が、隣から声をかけてきた。


「他人の日記を勝手に読んではいけないって、倫理というより、礼儀の問題だよね。倫理なら、緊急事態でも守るべきこととして納得できるけど。どれかは読まないとねって、全員で意見が一致した差し迫った段階で、礼儀の話をされても煩わしいんだよ。特にセレーンさんはさ、ここに居ないんだよ?」

「……え、今そんなに言うなら、さっきそう言ったらよかったじゃないっすか」


 吸血鬼は、口元をむずむずと動かし、最終的に気まずげな微笑みに変えた。彼のハの字になった眉を、そういえば久々に見た気がした。


「言わないよ。醜い考え方だもの」


 でも、と、吸血鬼は続ける。


「彼女、自分だけがセレーンさんの過去を知っているみたいな素振りするでしょ。せめて、あれはやめてほしいんだよ」

「……? それこそ、言わずにいてもだめじゃないっすか?」

「君だけがセレーンさんの過去を知っているみたいな素振り、やめてほしいんだけど」


 いや、だからといって、そのままの文章で言うと思わなかったので、ミカはすごくびっくりした。


 エリザベスは、セレーンの本の最後のページを開いて振り返ったところだった。吸血鬼と目が合うや否や、突然そのような文句を言われれば、さすがにポカンとしてしまう。しかし、徐々にそれが理不尽なクレームらしいことを理解すると、じわじわと口をへの字に曲げていった。


「なんなんでずの。実際そうじゃありまぜんの」

「いいや、案外そうでもなかったりすんだよね」

「ぞんなはずないでずわ。セレーンが、貴方なんかに過去を明がずはずがありまぜん」


 過去を明かすはずがない、いいや、明かすも何も当時一緒に……と、そこまで言いかけたところで、吸血鬼ははたと顎に指を当てた。


「そっかあれ、セレーンさんにとっては未来なのか」

「なんだかよぐわからないでずけど、これを見てぐだざいまぜ」


 エリザベスは、セレーンの本の最後のページを吸血鬼とミカに晒してみせた。エリザベスが示す場所には、エリザベスの本と同じように、二行でおさまる文だけが載っている。


『もう彼女は人間だ。囚われる必要はない』


「同じ文言で、締めぐぐられでいるんでずわ」

「なんにもわかんないっす……」

「レディ、この文の直前は読んだ? 流れで読めばわかるの?」

「急いで読んだので、この文の意味に確かなことは言えまぜんわ。でも、雰囲気だけで語るなら、読めば意味がわかるというような代物ではないように感じまず。読んでから、よぐ考えないど……。だっで、この文章はそもそもおかしいんでずもの。セレーンは人魚であって、人間ではないでずがら」

「うん」


 一瞬、その場で思考する構えになった吸血鬼だったが、すぐにセレーンの本を閉じるように、ジェスチャーでエリザベスに指示した。それから、三人が抱える、四人分の本を順繰りに見て、大広間を見渡し、それから首を横に振った。


「読むにしても、考えるにしても、一度大広間を出よう。ここには、腰かけられるものが拷問用の椅子しかない」

「え! この本たち、持ち出しまずの!? あの、この本、あまり動かしていいものにはおもえまぜんけれど。多分、ウィジャボードの幽霊が書いた、あの方の私物でずわ」

「なんでウィジャボードの幽霊が大広間仕切ってることになるの? おかしいじゃない、きっと館の支配人の私物だ」

「誰ですの。わだぐじの館でずわよ」

「いるはずでしょ? 私たちを、この館に閉じ込めた犯人は。必ずね。存在可能性は、ウィジャボードの幽霊よりもずっと大きいはずだ。でもその謎の人物は、今この場にいない。それなら、一度持ち出したって怒られることはないでしょ。禁帯出って書いてないし……、うん。禁帯出って書いてない方が悪くない? ね、ミカ」


 本の持ち出しを反対するエリザベスの言葉に、ミカは何も反応していなかった。同じく、『館の支配人』という、エリザベスの顔を曇らせた不穏なキーワードにも、吸血鬼の屁理屈にも相槌すら打たなかったが、少なくとも、今から部屋を出ることについて、ミカから反対されることはないだろうと吸血鬼は踏んでいた。

 なぜか? ミカが会話に加わらなかったのは、他の何を度外視しても、大広間から出られるならそれがいいと思っているからなのだ。他の難しい物事に対しては賛成反対の意思を示さず、ただ大広間から出ること一点に集中して賛成していた。


 ミカは、口元を覆う赤いスカーフを下にずらし、吸血鬼に頷いてみせる。


「はい。息苦しいんで。色々と」

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