第三十八話 ラック篇
「ミカ、一緒に居るのでず。悪い゛ものが近くに来ても大丈夫でずわ。わだぐじが守りまず」
「いやいいっすよ。まだ何も出てきてませんし。大丈夫っす……」
「でも」
エリザベスはミカに駆け寄って、彼のぎゅっと縮こまった肩を腕にかき抱いた。後ろから抱きしめられる形になったミカはエリザベスの腕を内側から押し返そうとしたが、その力は口に出す言葉よりも軽いものだった。
「ねえ見て。手錠がある」
いつの間にか吸血鬼は、「うごくシャワー水槽号」から離れ、再び拷問器具の群れの中に戻っていた。彼は、部屋の左奥、つまり先ほど、ミカが引っ張り出すまで水槽号が置かれていた場所に佇んで、手に持ったジャラジャラと鳴るものを見せてきた。
「手錠? どっから?」
「さっき、水槽号を動かしたときの揺れで、上から落ちてきたんだよ。あのシャンデリアに引っ掛けていたみたいだね」
「シャンデリア……?」
大広間の天上には、シンプルな四灯のシャンデリアが、左右二箇所と中央に、合計五つ吊り下げられていた。吸血鬼が指さしたシャンデリアはちょうどシャワー水槽号があった場所の真上に当たり、大きな水槽がなくなったことで、そのシャンデリアの全貌を真下から眺めることができるようになっていた。
シャンデリアの四つの腕のうち三つには、くすんで金属光沢の弱くなった黒い鉄の器具が、器具に繋がる鎖を支えに引っかかっていた。シャンデリアは、何もかかっていない残りの一本腕をガクンと持ち上げるように傾いており、そのままゆらゆらと揺れている。吸血鬼が拾い上げた手錠は、元々、あの軽くなった一本に引っかかっていたのだろう。
「レディ。この手錠も君のものだね」
「ごれは……」
吸血鬼が手錠をエリザベスに差し出すと、エリザベスはそれを両手で受け取り、鎖を横に広げてマジマジと観察し始めた。彼女が手錠を持つその姿を見て、ミカが、あ~ッと声を上げる。
「これ前に、姉さんがずっとつけてた手錠?」
「大きさと手入れの感じがらじで、多分そうですわ。でも、あ゛れはこの前、腕が取れた弾みで、サロンの大きい水槽の中に落ちだんですの。ぞのまま、ずっと水の底に沈んでいだはずですけど……。シャワー水槽号といい、ごれどいい、どうしてごごにあるんでずの」
言いながら、シャンデリアを見上げて暫し考えたエリザベスが、はっとしたように目をかっぴらいた。
「あの引っかかってるやつは何なんすかね」
「あれ、殴るやつと絞めるやつじゃないかな。あれは聞いたことあるよ、スペインの蜘蛛」
「よぐご存じでずわね。話題の蜘蛛を買っだはいいものの、頭を締め付げるだけで大して血を絞れなかっだので、あまり使わないままごごに仕舞っていたのでずわ」
吸血鬼とミカが、エリザベスを振り返った。エリザベスは気まずそうに目を逸らしながら、手に持った手錠の鎖を、二人に向けて少し掲げてみせる。
「ごれ、ごれは……、理由なく大広間に移動ざぜられだんじゃないんですわ。もう要らないものだがら、あるべき場所に仕舞われだんでず」
「……どういうこと?」
「あるべき場所に仕舞われたって、じゃあ、その手錠は元々、大広間にあったのをレディが使っていたの?」
「いえ、ぞうではなくで……もともとシャンデリアにかけてある道具は、もう要らなくなったもの、という印だったのでず。シャンデリアに掛けでいれば、床に置かなくでいいし、頭上にあるので邪魔にならないでじょう? 拘束系の道具は、経験を積むにつれて縄の方が効率的とわかりまじだので、それで」
「何?」
「つまり、盗まれたとか奪われたとか、隠されたとかじゃなくて、誰かがお行儀よくお片付けしたということなんだね? それが、シャンデリアにかかっていたということは」
「ぞういうごどでずわ」
「なるほど、大水槽に沈んで使うにも使えなくなったなら、それは確かに要らないものだ」
「じゃあ、水槽号も」
ミカは、合点がいったようにうなずいて、うごくシャワー水槽号に目をやった後、両腕を広げて、今三人が立つ場所を示してみせる。
「隅っこにあったし、お片付けされてるっぽいっすよね」
「そうだね。持ち主がいなくなった、要らないものだ。疑問なのは、誰が何のために片付けたのかってことだよね」
「使わな゛いものは片付けるのがマナーでずわ」
「そういうお行儀の話はともかくさ。このままいくと、現在の大広間は不要物の保存庫である、という話で結論づけてしまえそうじゃない。ここには、ミカの過去の記憶を探しに来たんでしょ。だけど、この拷問器具の塊の中に、ミカ、君に関するものがある?」
「ないっすね」
「ね、レディ・エリザベスの過去なら覗けそうだけどね」
「……勘弁してぐださいまし。本当に」
エリザベスはむっと口を結んで吸血鬼を睨みつけると、シャンデリアに手を伸ばして手錠を掛けようとした。しかし、本当なら踏み台を使うはずなのだろう、床に立った状態では到底届くようには思えない高さであったので、吸血鬼は黙ってコウモリを遣い、彼女の代わりに手錠を片付けた。
一方、ミカは二人より先に、「うごくシャワー水槽号」の元へと移動していた。ミカにとっては、見慣れた水槽号の側が、この広い部屋の中で唯一の安息地だと思ったからだ。拷問器具に囲まれているのは、やっぱり窮屈で圧迫感がある。トゲトゲが沢山生えた椅子を視界に入れっぱなしなのは、正直言って恐ろしい。心労が酷い。
心の安らぎを求めて水槽号を見つめると、周囲の景色に見えるのは、何もかかっていないシャンデリアと、薄金色の壁紙だけである。
こんな環境に置かれた人魚さんの足が可哀想に思えてきたところで、不用心に歩くミカの背後に吸血鬼が慌てて声を掛けてきた。
「ミカ、一人で歩かれると怖いって。そこの床に落ちてるやつとか、足が挟まったら、ちぎられるよ」
「え、あ、うわぁ、いちいち危険物盛沢山な感じっすね。何だってこんなにも集めなきゃいけないんだか……そうだ、シャンデリアにかけてるやつが使わなくなったやつなら、一番使うやつはどれなんすか?」
「過去は覗がないでと言ったところですのに」
「いいじゃない、他でもないミカが知りたがってるんだよ?」
「別にすごく知りたがってるわけじゃないっすけど。血生臭いのが嫌になって、逆に疑問が湧いてきたってだけで」
「一軍拷問か……私わかるよ。アイアン・メイデンでしょ」
「興味津々なのは吸血鬼さんじゃないっすか」
「残念でずわね。あれは最後でず」
「最後なんだってぇ、ミカ。じゃあ最初は?」
「ラック……でずが」
「ラック?」
「あら、ぞういえば、あ゛れはどこに……?」
ラック? と復唱したミカは、シャンデリアを指さしてエリザベスを見た。しかし、彼女は急に周囲をキョロキョロとしだして、ミカとは目が合わず、代わりに心なしか浮ついた吸血鬼が答える。
「それは、ラック(棚)にしたシャンデリア。え、ラックってあれでしょ、ここにあるの? あれって何世紀のやつだっけ?」
「ラック自体は大昔からありまじでよ……、あ゛。あんなどごろに」
「らっくってなに?」
問いかけるミカを一度制して、エリザベスは大広間を駆けだした。向かう先は入り口から見て右手前。シャワー水槽号や、エリザベスの手錠がかかったシャンデリアがあった場所とは、対角に位置する場所である。その、入室時点では視界にも入らないような目立たぬ一角に辿り着くと、エリザベスは勢いよく振り返ってミカと吸血鬼に両手で手招きした。
「早く、見てぐだざいまし!」
大広間の隅に縮こまるようにしてあったのは、人一人寝そべることができる程度の大きさの、木製の台だった。拘束台に似ているが、少し違う。四隅には縄がついており、手足を拘束できるようになっている点は拘束台と同じだが、その縄は、天板の頭側と足側にそれぞれ設置されたローラーに繋がっていた。ローラーは、台の側面に付属するハンドルを回すことでクルクルと回り、縄を巻き取る仕組みである。
そのからくりめいた台の上に、今、四つの本が並べられていた。
禍々しい天板の上に整然と並んだ四冊を見て、何を思ったか、ミカがつぶやく。
「ラック(棚)じゃん」
「ラックは拷問台でずわ。人間を伸ばすのでず」
「人間を伸ばすって何……???」
「確かにこれじゃあ、ラック(棚)だね。本棚だ。……見て」
吸血鬼は拷問台にそろりと近づき、四冊の本を順繰りに観察した。途端、じわりと眉を顰める。吸血鬼は、一番右端の一冊を手にとって、胸の高さまで丁寧に掲げて、ミカを振り返った。
「私たちの名前が書いてある」
「え? うそ」
ミカは吸血鬼の傍に寄り、その手にある本をまじまじと見た。本の表紙は、まるで聖書の装飾写本のように美しかった。本のページ数自体に厚みがある上、裏表の表紙も、背表紙も、深紅の革を黄金のレリーフで飾った代物で、実質量と視覚効果ともに重厚感がある。
さて、その本。
「マジだ」
吸血鬼の眉を顰めさせ、ミカの目を見張らせた犯人は、表紙のタイトルを記す場所に確かに、「MIKA」という、青年の名前が刻まれているその事実だった。
「俺だ」
「はい、自分で持って」
「はい」
ミカは吸血鬼から、自分の名前が刻まれた本をよいしょと受け取る。吸血鬼はその重たい本を手放すと、残りの本の表紙に書かれた文字も、左から順に読み上げた。
「エリザベス、ジャクソン、セレーン、……で、ミカ。全員分あるよね」
「ジャクソンって?」
「私の名前」
「え。こんな形で知るなんてさ……」
「レディ・エリザベス。君がこの拷問器具を使っていた時代に、ここにあるようなマークは書かれていた?」
エリザベスは、吸血鬼が促す通りに、拷問台へ歩み寄った。それから、拷問台の天板いっぱいにでかでかと、黒い顔料で描かれた「十字」を泣きそうな表情でじっと見つめた。しばらくして、心の傷を誤魔化すように、強く首を横に振る。
「知りません。逆十字なんて」
「そうだね。足を向ける方向が下になるのなら、これは間違いなく逆十字だ。おいで、レディ、少し距離を取ろう。君は、こういうのだめなんだろう。大事な私物を、心情に反する思想で傷物にされたんだ、無理もないさ」
吸血鬼は、エリザベスの手を引いて、拷問台に背を向けさせた。少しでも励ましになるかと、コウモリを一匹出現させ、彼女の周りを飛び回らせる。安心させるよう、にこやかな微笑みも浮かべてみせたが、エリザベスはニコリともしなかった。
レディの涙は、コウモリに任せるのが最善さ。そう心中で呟き、肩で深呼吸した吸血鬼はミカを振り返る。ミカは、自分の名前が書かれた本を開こうと表紙に手をかけていた。若いって行動がはやいね、勇気あるなあ。吸血鬼は、今度こそ心から笑みを浮かべて、ほんの少しの興奮にややうわずった声で、「ミカ」と、呼びかけた。
「お目当てだね」




