第三十五話 君、喋れるんでしょ篇
「さようなら」を示して動かなくなったプランシェットに手を乗せたまま、ミカはじっと、その指先を見つめていた。そんな様子を眺めて、事態をやっと咀嚼した吸血鬼は、これ幸いと休憩を提案した。
吸血鬼がミカに声をかけると、小さな青年は再起動のボタンが押された機械のように動き出した。しかし、彼が言った「今の続き」とは何のことか、という吸血鬼とゾンビ嬢の疑問に解説を加えてくれるどころか、ウィジャボードの感想も、それに満たない感情の表明までも、何一つ口を開かない。それは、思い詰めているから、というよりも、軽く放心して、思考を止めたいようだった。
それゆえに、吸血鬼がミカにかけられる言葉は、彼をねぎらうためのもの以外になかった。
「疲れたね。気疲れかな」
「そうすね。俺、一旦部屋に戻って寝てきます」
ミカが静かにサロンを出て行くと、吸血鬼もまた、ソファーを立ち上がった。
「私も一度失礼するよ。ウィジャボードが出した最後の回答のことは、また後で考えよう。まだ、今日の洗濯をしていないんだ」
そう言って戸口に向かおうとしたところ、ゾンビ嬢が「うっ……」と小さく唸る。振り返ってみれば、彼女は何かを言いかけたように口をへの字に半開いて吸血鬼を見ていた。その瞳が、自分の顔とウィジャボードの間を行き来するのを見て、合点がいく。
「ああ、その板ならここに置いたままでいて。後で、私が片付けておくから。不安なら、君も部屋に帰っておいでなよ。できれば、ゆっくり落ち着いて過ごして。ミカが起きたら、行ってみようね。大広間」
ゾンビ嬢が立ち上がる。緑のふわふわドレスがソファーの表面を擦って、スルッと音を鳴らした。その面持ちに笑顔を向けて、吸血鬼はまた、「どうしたの?」と尋ねる。
「どうしたのか言ってごらん。いいよ、喋っても」
ゾンビ嬢は驚いて、乾いた喉に息を吸い込み、「ガッ」と音を鳴らした。それから、罰が悪そうに上目遣いになって、吸血鬼の顔色を窺う。
死後硬直のため満足に動かず、呻き声しか発していない喉に向けて「喋れ」と言った、男の顔面の色は穏やかだった。要は、彼は、ゾンビ嬢がミカのために、最も恐れた言葉を臆面もなく発したのだった。
とはいえ、対するゾンビ嬢も、まだ、基本的には穏やかだ。彼にまだ感情を荒らげる様子がないのがわかると、一度落ち着いて話を試みることにしたのだ。
「喋れるんでしょ。レディ・アンデッド」
「……やっぱり、聞がれでいましだ。いづがら気付いていだのかじら。ヒヤッとずる瞬間は、これまでにも多々ありまじだわ。もっど早くに指摘しでごないなんで、嫌な人」
ゾンビ嬢の声は、吸血鬼が思っていたよりもずっとがさついて汚かった。吸血鬼は思わず瞑目するも、目を空中に片道走らせて、記憶を辿れば一つ頷いた。ドアの向こうから聞いた声は、直接聞いても、このようだったのだな。ノイズが入って聞こえるのは、壁を挟んでいるせいかと思っていたが、……気の毒に、違ったようだ。
「買いかぶらないでよ。君が喋れるようになっていることなんて、全然気が付いていなかったさ。今日、君の部屋から二人分の声が聞こえてきたとき、やっと知ったんだ。これをミカがいないところでゆっくり問おうと思ったら、そのタイミングが今になるのは合理的なことでしょう?」
「それが本当なら」
「本当だって」
ゾンビ嬢が、背もたれを贅沢に使ってソファーに座りなおす。吸血鬼も、少し考えてから、上半身をゾンビ嬢に向けて、前のめりに倒すようにして座った。要人対記者の対談のような態勢になると、ゾンビ嬢は、吸血鬼が改めて尋ねるまでもなく、喋れるようになった経緯を話し出す。
「貴方と出会っだ頃から、ミカと生活ずるようになっでまで、その暫くは偽りなぐ、呻き声しか出まぜんでじたわ。喋れるようになっだのは、つい最近のごと。ミカと話じでいだ時です」
「どうして、私には黙っていたの?」
「簡単なことです」
ゾンビ嬢は、足を投げ出して座っていた。名家の令嬢のような口調をして、あまり品のない仕草。口元以外は、まだ自由が利かないということだと、吸血鬼は理解した。
「貴方と、喋りたくなかった」
ゾンビ嬢は、吸血鬼の目を真っすぐに見つめてそう答えた。
「ぷ」
やれ、噴き出した。吸血鬼は思わず、心から破顔してしまった。
「そっか、そっか」
そっか、喋りたくないと言われてしまえば、こちらから、それ以上追求するわけにはいかないね。
「きっかけは、貴方が怪じいぐらいに世話を焼きつつ、お肉を食べてはダメだとか、わけのわからない言動をしでいだ時。変になっでしまっだ貴方に代わっで、ミカを助けるために口を動かぜるようにしで貰えだのだと思いまじたわ。そうやって、代わりが必要になるほど、変になってしまった人と、わざわざ喋りたぐはございまぜん」
「いいよ、わかった、わかった。痛いなあ、自分の言動が原因で置いてけぼりを食らうのは。でも、自業自得なら仕方がないね。それが本当なら、さ」
吸血鬼は、目尻に涙を溜めながらそう言った。フンス、というゾンビ嬢の荒い鼻息が聞こえる。そんな一息にさえ、吸血鬼への声なき悪態が乗っかっている。
「それで、何か言いたげだったんだよね。先の、ウィジャボードに出た回答についてかな?なんでも聞こう。君の話に戻ろうか」
「本筋を、ちゃんと覚えておいででしだのね。まあ、最悪言わずともいいような、ちょっとした心配ごとでずわ」
ゾンビ嬢は、ソファーに預けていた背中を起こす。改めて真剣な眼差しを、吸血鬼によこした。
「その」
ちょっとした心配ごと、という割に、やけに言いよどむ。
「大広間には、行がなげればなりまぜんかじら」
そう切り出したゾンビ嬢の顔を、吸血鬼は冷静に観察した。科学者がモノを分析するときと、同じような頭の動かし方だ。口元以外が以前硬直したままのゾンビ嬢の顔は、その不自由さながら、目尻をほんの少しと、顎の角度をはっきり下げて、瞼に影を落とした様子を彼に見せつけていた。
「……気が乗らない様子だね。私たちが行かないと言っても、ミカは行きたがるだろう。きっとそうなれば、一人で行かせるわけにはいけないと思うけれど。それでも君は嫌だというなら、どういうわけでかな?」
「貴方だって、進んで行きだいわけではないのでじょう。大広間に、何があるか知れまぜん。降霊術の際、変なモノを見なかっだの?」
「変なもの。いいや」
「わだぐじは見ましたわ」
ゾンビ嬢が、小首を傾げながら口元を抑えた。気分が優れないような様子に、吸血鬼が彼女の隣に移動してきて、背中を支える。
「余計なお世話ですわ」
「薄々感じてはいたけど、君、私のことが結構嫌いだよね」
さっき、思いっきり、喋りたくないと言われたし。
吸血鬼は、ゾンビ嬢と同じソファーの上から退きはせずとも、彼女の触れられない距離まで、ズズッとずれて、離れてみせた。
「そうだね……。何か見たわけではないけれど、何かおかしなことが起こっているとは感じたかな。その、『おかしなこと』の原因は、君が見た『変なもの』にあると、そう言いたいわけだね?」
「いいえ。わだぐじが言いだいのは、確実に居る『変なもの』が、大広間に居るかもじれないどいうごと」
ゾンビ嬢はソファーを立ち上がって、吸血鬼を見下ろした。大きな体躯は、相手を迫力で抑えつけたいときに非常に有効だと、吸血鬼は頭の裏側で考えた。
「そんな、『変なもの』に招かれた場所に、ミカが行くごどを許ぞうど言いまずの? それが、本当に、ミカのためだと言いまずの?」
吸血鬼は、ゾンビ嬢の血走った目を見上げながら、緩く首を振った。
「まさか。君と私の考え方は偶にすれ違うみたいだが、ミカを思う気持ちは変わらないさ。大広間に行くかどうかは、ちゃんと、ミカと話し合うことにしよう」
吸血鬼は、さて、と腰を上げる。ミカのいない場所でこれ以上話していても仕方がないだろうと、ゾンビ嬢に向けて言葉無しに瞬きして促すと、ボディーランゲージに長けた聡明な彼女は、一つ、俯いたままコクンと頷いた。
「じゃあ、今度こそ失礼するよ。さっきも言ったが、洗濯が残っているのでね」
サロンの扉を静かに開けて出て行く背中は、未だソファーの前から動かず、じっと立ち止まったままの緑色したドレスが差し向ける視線によって見送られた。




