第三十四話 見せた記憶篇
ウィジャボードの幽霊だ! と、ミカは思った。
吸血鬼は、ウィジャボードで交信する霊のことを「幽霊」とは言わなかったはずだが、ミカにとって霊といえば、全て幽霊と呼ぶものだった。
ミカは、プランシェットを抑える自分の右手の甲のところに、そっと触れる人差し指を見ていた。その指は、ここへ静かに現れて、ミカの手を抑える力加減は、確かに指一本程度に軽いものだったが、なぜかミカは、誰とも知らない黒い指を振り払う気にならず、やりたいようにしてほしいと身を任せた。
この黒い影が固体になるまで形をとったような人は、ミカたちのところへ突然現れたのかと言うと、そうでも無いとミカは答える。ウィジャボードを囲む吸血鬼と、ゾンビ嬢と自分の他に、もう一人、どこかに誰かがいるような気がしていた。気がしていただけで、キョロキョロとあたりを見回してみても、人影らしきものを視認することはできなかったが、「ウィジャボードの幽霊だ!」と思って、そっとしておこうと決めていたのだ。まさか、目の前に姿を現すなんて。いざ目に見えた途端、その人差し指より他には、何も見えなくなっている。吸血鬼とゾンビ嬢が、プランシェットから弾き飛ばされたのもわからないほど。
ミカは、喉をごくりと鳴らした。それから、ゆっくりと、目玉を上に持ち上げ始める。黒い人の指を振り払う気はないが、その人の顔だけは拝んでみたいと思った。首を動かさず、目を上へ上へと向けると、察した相手が腰を折り曲げて、座ってうつむき気味なミカの低い目線に合わせるように、顔を覗かせた。
きっと相手も、ミカの顔を見たかったのだ。上からスライドするように視界に入った顔は、煤を集めて水で固めたような質感の核に、ふつふつ湧いては流れる塵が纏わりついてできていた。その核と塵、塵同士が細かく大量に影を作って、タンパク質じゃない体であるのにスカスカな部分ができないくらい、のっぺりとした黒になっている。
けれど、ただ一つ、目の部分だけが白抜きになっていた。人間らしい、アーモンドのような形ではなく、眼窩がそのまま剥き出しになっているか、あるいは瞼のない動物の目のように、ただの真円が、左右に並んで二つ、顔に開いている。
ああ、お月様が二つ。ミカが思った。ミカはこそこそと目だけを動かしていたのも忘れて、首をついと少し、黒い人と向き合うように持ち上げた。
ミカの全身の毛がほんの少しだけ長く伸び、粟立つ肌に連動して逆立つような感覚がした。
ああ、目があっちゃった。
「やあ」
と、実際そういう声を出してきたわけではないが、黒い人は、確かにそう言ったようだった。顔の中央、白抜きの目の下、口に当たる部分が、大きく開いて、それから閉じたのだ。
相手に、鼻筋の影や唇の膨らみ、頬骨の頂点が、ちゃんとあることを知った。
§
血の臭いがする。
「ミカ。来ちゃダメって言ったでしょ」
凛々とした女の子の声に名前を呼ばれて驚いて、パチンと瞼を弾くと、真昼の小屋の中が見えた。
家の奥側に一つだけある小さな窓から四角く日光が差していて、その窓の対面に位置する戸口からも、細く光が侵入している。ミカがこの戸を開けたからだ。戸をさらに大きく開くと、床に伸びる光が縦に大きくなって、窓から入る方の光に近づき、光の白帯は家の中を左右に分断した。
小屋は、木の丸太を横に重ねて組んで壁を作ったもので、三角屋根の上には芝生を植えている。芝生が断熱材になって、寒さを和らげるのだという話だ。昔、ミカのお爺さんが一人で住んでいたこの小屋は、確かに住むなら一人でやっとというくらいに手狭であって、二階無し一間の現在の用途は、ミカの家の、予備の納屋だった。
けれど、この納屋はたまに、姉の隠れ家にもなった。今日だって、その日だ。姉が隠れてしまう日なのだ。ミカは、姿の見えない姉の匂いを辿ってここまでやってきた。初めて姉が隠れてしまった日にも、ミカはこうやって、親に黙って、匂いを辿って会いに来た。
「ミカ、今日は何日だっけ」
「二十三日だよ」
「よかった。じゃあ、おいで」
ミカはパタンと戸を後ろ手に閉めて、姉の側まで歩いて行く。窓の左側には、以前、羊農家が紡績までやっていた時代に使っていた、手動の糸巻き機が放置されていた。その横には、お婆ちゃんが若い頃に現役だった織機もある。ミカの姉は、二体の古い機械が作る狭い隙間に挟まるようにして、ひっそりと座り込んでいた。
「姉さん」
「ミカ~? 甘えんぼしに来たの?」
「休憩していいって父さんが言ったんだ。俺、朝からずっと羊について回ってたし」
「ああ、ごめんね。今、わたしがいないから」
ミカの頭に向かって、赤く日焼けた腕が伸ばされる。ミカはその腕に誘われるままに、姉のすぐ傍の床に尻をつけて座った。
くるぶしまでのスカートの中で三角に折りたたまれた姉の膝を両腕で抱き込み、その膝と膝の隙間に自分の顎を差し込んだ。そうすると、ミカの上体は姉に向かって前かがみになって、ちょうど彼女の胸あたりの位置に、ミカの頭が来るようになる。
「でも」
姉の手が、ミカの頭にポンと乗った。
「隠れてる女の子を、勝手に探しちゃいけません。そういう約束でしょ?」
じゃないと、ミカが困るんだよ。
ミカは顎を少し引いて、鼻を姉の膝の谷あいに埋めた。
赤いスカートに染み付いた太陽の匂いの向こうに、生々しい鉄臭さを感じる。
血の匂い。
血の匂いがする。
鼻の奥まで届いて、眉間の下にある空気だまりにこびりつくような、ひどく強い血の香りだ。脳まで揺さぶられて気が遠くなりそうだ。
違った。脳が揺さぶられているのは血の匂いのせいではない。ミカの頭がぐわんぐわんと、左右に揺れているのだ。だって、視界まで歪んで見えているもの。じいちゃんの小屋も、ばあちゃんの織機も、全部の輪郭を捉える前に、視点が動いて、また動く。
だから、匂いと色だけが、ミカの感覚神経にしっかりと届いていた。
ミカの足元は真っ赤だった。自分の足や手や胴体も全部真っ赤だったけれど、床がいっとう真っ赤だった。足を一歩踏み出せば、べちゃっという音と共に、何か柔らかいものを踏んだ感覚がして、バランスを崩して床に膝をつく。ずるりと滑りそうになるのを踏ん張った。
「ねえ」
真っ赤な海の中から、声がした。いつもはもっと凛々としているはずの声だ。空気を沢山孕んでいて、耳が遠ければ聞こえるかも怪しいが、ミカにはちゃんと、同じ人の声だとわかった。
声を追ったことで、ふるっていた頭がやっと定まって、血の海に浮かぶミカと同じ茶色い瞳と目が合った。
先ほど踏んだ柔らかいものが、動かなくなった姉の手であったと知る。
姉の腹は大きく切り裁かれ、そこから大量の血が流れだしていた。腹の中に入っているものは決して血だけじゃないのであって、そこに流れているのも血ばかりとは言い切れないかもしれないが、目に痛い血色の主張が強すぎて、それ以外のものを認められない。
ああ、ミカがいつも辿っていた匂いの正体は、こんな色をしていたんだ。
もう座り込むことすらできず、床に転ぶだけ寝っ転がって、どこにも力が入っていない体を、弱々しく呼吸の弾みだけで上下させながら、死にゆく姉は、顔に赤いものを迸らせたまま、それでも薄く微笑んでいた。
姉が言う。
「ね、来ちゃダメって言ったでしょ」
§
気付いた時には、プランシェットに置いたミカの手の上に、黒い人の指は置かれていなかった。それでもミカは、律儀にそこから手を動かさず、衝動的に質問を口にする。
プランシェットには、吸血鬼も、ゾンビ嬢も、手を乗せていない。まだウィジャボードに参加しているのはミカだけだったけれど、唯一のミカも、その手に一切の意思を乗せていない。
『大広間』
プランシェットが示したこの場所は、館の中心となる部屋であるにも拘らず、未だ住人の誰も、掃除をしたことがない場所だった。




