第四話 消沈篇
ゾンビ嬢のパワーによって、大食堂の観音扉は開かれた。
玄関ホールの左側、やや手前寄りに入り口を設けるダイニングルームは、入れば奥に伸びて広々としている。しかし、艶の消えた黒木の扉が開いても、様子がわかるのはせいぜいホールの光が届く足下の床までだった。
「う~ん……」
と、青年が鼻をつまんで後ずさった。色素の薄い瞳をゆがめ、首に巻いた赤いスカーフの中にうずもれてしまう。強烈なカビの匂いに反応したのだろう。森の中にあるこの洋館では、どの部屋も湿度が高くなりがちだ。とはいえ、少なくとも青年らが普段生活する範囲内なら掃除が行き届いていて、これほど鼻が曲がるようなことは無かった。
「大丈夫? 君は食卓に戻っておいでよ。まだご飯を食べ終わっていないでしょう」
金髪の吸血鬼が振り返って言うと、青年は小さく「あ」と零してから、茶色い髪をふるふると揺らした。
「……いや、でも、後でいいっす」
「そう? 無理しなくても、人魚さんのわがままなんだから」
「ちょっとその言い方、わたしが悪者みたいじゃない?」
「いやあ、人魚さんのわがままなことはわかってますよ。でも、そういえば俺、この食堂とかホールの奥にある大広間って、ちゃんと見たことなかったなって思って。館に来た直後は色々見たんすけどね、入る気にならなかったし……今後も俺一人じゃ入らないだろうし」
「つまり、君の好奇心かい。それなら、辞めにするわけにもいかないね」
吸血鬼は大食堂に向きなおった。カビくさい上に、わずかに照らされる床は埃に覆われているようだ。タキシードの上着を脱いでいてよかったなあ。たまたま、料理をした後だったからね。軽く鼻から息を吹く。扉を開けてから一行の先頭に立ったままのゾンビ嬢に、「ちょっとごめんね~」と声をかけ、その二の腕を押すと、彼女は素直に後ろに下がった。
吸血鬼は右手を食堂の中に向けて掲げ、パチンッと指を鳴らした。広い空間に向けて高い音が響く。前方へ人差し指を向ける形になった手の袖口から、数匹のコウモリが火種を持って飛び出した。
「おお~」
吸血鬼の背後で、人魚と青年の声が重なる。
小さなコウモリたちは、それぞれ食堂の四隅と天井に向かって飛んでいく。その様子を、暗い空間で火花が飛び散るようだと見ているうちに、まず壁際の四つの大きな燭台に明かりが灯った。さらに、中央では空中に炎が浮かぶ。高いところから螺旋階段を下りてくるように、順調に点火が続けられる。
照らしあがったのは、天井から吊るされた大きなシャンデリアだった。銀色のリボンのような金属板が、天井の梁から螺旋状に伸び、先端はその下のテーブルにつかんとしている。その金属板の上に、等間隔で燭台が据えられ、まだ長い蝋燭がオレンジの光を燃やしていた。螺旋部分を支えるために、その渦の中央には一本太い棒が通っていて、その棒と螺旋を、これまた金属棒が無骨に繋いでいるが、その棒らにもきちんと装飾彫りが施され、見事にもその装飾の凹凸が反射して、光を食堂全体にいきわたらせていた。
食堂の全貌が見えている。青年は鼻をつまみながらのぞき込んで、ほえ~、と感嘆の声を上げた。
「全体的に迫力すごいっすね。重そうなテーブル!」
「埃まみれだけどね」
「ねえ、わたしも見たい! どいて! 入っていい?」
人魚がついに水槽を前進させ始めた。彼女の水槽はどうしても場所を取るので、扉を開けるまでは他の三人の後ろで大人しくしていたわけだが、いざ開いて明かりもついたとなれば、遠慮することはないはずだと。
「いいですけど、今入ると水に埃が落ちますよ」
「多少大丈夫っしょ、毎日水替えするんだから!」
吸血鬼、ゾンビ嬢、青年が前を避ければ、豊かな赤髪を後ろに払って、食堂の中に向かってハンドルをきる。大きな入り口は、使用人休憩室に入るときのように慎重にならずとも易々と通れた。これこれ、この入りやすさが欲しかったのよね。
「ほっら、ごらんなさいよ! こーんなに広くて素敵なところ、使わないのはもったいないじゃない! 海底遺跡みたいな荘厳な感じがするわ、おひめさまみたいね!」
はしゃぐ人魚を尻目に、青年がふと眉をひそめた。
「あれ、なんか、焦げ臭くないっすか?」
「ん?」
依然、青年は入り口で鼻をつまんだままだ。そんな状態で臭いの変化に気づくなんて、やっぱり鼻が利くんだな……と、しかし指摘はしないまま、吸血鬼は部屋を見回した。
「確かに全体的に焦げ臭いような……」
ボッ!!
と、その時火柱が上がった。
「うわあ!」
「え!? 何々!? 何あれ!?」
向かって左の奥の角、人の背丈ほどの燭台のすぐ隣。壁に沿って炎が燃え広がっているのだ。
「あっ、あっっつ!!」
「何!?」
「上から火の玉が! シャツ!」
見ればシャンデリアに溜まっていた埃にも蝋燭の火が引火して、辺りに飛び散っている。
「やばいって、あんた、埃だらけのところにいきなり火なんかつけたら、そりゃ燃えるって!」
「確かに! ごめん! 君気づいてたなら言ってくれればよかったのに!」
「いや気づいてなかった今気づいた!」
「これ火!? 火!? やばい!? 消す!?」
「人魚さん、落ち着いて一旦外に出て。青年、バケツに水汲んで持ってきて」
「うああ」
「レディは燃えるといけないから……」
「水!?」
ここで、人魚が水槽に備えつけのシャワーヘッドを手に取った。吸血鬼とばっちり目が合って、彼の行動が一時停止する。一方でゾンビ嬢は、人魚のその行動を見た瞬間に水槽の後ろに回った。
「いくよーー! ゾンビちゃん!!」
「うああああああああああああ!」
吸血鬼がハッとした時にはもう遅い。ゾンビ嬢は、水槽を両手で押して走り出していた。火が燃え広がる場所まで、一直線。
「待ってレディ・アンデッド! 君は燃えやすいから!」
制止を聞くより走る方が早い。ゾンビ嬢が押して走る水槽の上から、人魚は壁にシャワーヘッドを向けて、勢いよく水を噴射した。
ジャアアアアアアアアーーーーーーーーー!
「何すか大声出して……!?」
壁に叩きつけられる水が、強引に炎を消していく。火のもととなった蝋燭も濡れて、今後使えるかどうか怪しくなった。
消火用車両は、長方形の室内を、テーブルの周りをまわるように駆け抜けた。シャワーは常に壁を向いて、火のあるなしに関係なく全体を濡らしてしまう。四隅の燭台は順調に消沈していく。走行しながらシャワーを出せないという「うごくシャワー水槽号」の欠点を、人力で完全に克服した。
残るはシャンデリアの火だけ。部屋を一周して戻り、上を見上げた所で、人魚は困惑した。シャワーの水勢の限界で、天井まで水が届かない。どうしよう、とゾンビ嬢を振り返ると、彼女もぼうっと大口を開けた顔のままで、悩まし気に唸った。
「いや、もういいよ! 十分濡れたから! 燃え広がりはしない!」
その時、ゾンビ嬢がキリっと眉を上げた。その変貌に人魚がびっくりしている間に、体の浮く感覚がする。次の瞬間には、人魚は部屋の扉前で待機する青年の腕の中にいた。
「なんで小僧にだっこ!?」
「あんたが投げてこられたんだよ!」
「うあああああああああ!!」
ゾンビ嬢の轟くような声に、はっとした二人は同時にそちらを見る。
ゾンビ嬢はテーブルに乗って、水槽を台座から持ち上げていた。そして、シャンデリアに向かってその中身をぶちまける。残り少なかった水は弧を描いてシャンデリアに降り注ぎ、食堂の中は再び闇に包まれた。
パチッ、と音がして、一筋の光が食堂の中に差し込む。青年の隣に立つ、吸血鬼の手元から発される光。懐中電灯の光だ。少し角度を上に向けると、光に照らされる範囲が広がる。さらに、小さなコウモリたちが数匹、それぞれにランタンを持って部屋の四隅に飛んでいった。天井の梁にさかさまにぶら下がって、心なしか申し訳なさそうにじっとする。この文明の利器たちで、部屋で何かする分には困らない程度に明るくなった。
青年は、静かなままの吸血鬼をそっと見上げた。人魚はさらに慎重だ。恐々と、手を前に組み、上目遣いで彼の横顔を見る。
吸血鬼はおそらく、ゾンビ嬢を見つめていた。ゾンビ嬢は、吸血鬼に「レディ・アンデッド」と呼ばれている。青年のことは、「君」とかなのに。人魚は「人魚さん」なのに。「レディ・アンデッド」は、吸血鬼にこんなにも静かに見られたことはあるだろうか。基本的にあまり表情が変化しない彼女だが、水槽を台座に戻したその手で、ドレスのスカートをぎゅっと握っていた。
「……まあ、どうせ掃除するつもりだったしね」
吸血鬼がほうっと息をついて、比較的明るい声で言った。青年はパチパチと目を瞬かせてから、ひとまず、よっこいせと人魚を抱え直した。「うっ」と人魚が呻く。
「……濡れたおかげで、ちょっとカビくさいのが和らぎましたよ。俺も頑張りますね」
「うん……」
返事をしつつ、吸血鬼は一度俯いて、顔を上げないまま首を横に振った。「いや、……」と続ける。
「なんだか傷心なんだ。君は人魚さんを大水槽に運んでから、レディ・アンデッドのドレスが焦げていないか見てやってくれ。そうするともう遅くなるだろうから、そのまま寝てくれて構わないよ。寝る必要のない私が、一人で綺麗にしておくから」
それを聞いて、ゾンビ嬢がガーンと口を開けた。元から常に開いているが、それよりさらに開いて見えた。
傷心というか、意気消沈という様子の吸血鬼を見るのは初めてで、青年は遠慮がちに彼を見返す。
「あの……、でも、二人が頑張ってないとホントに火事になってたと思うっすよ。結果オーライっていうか、別に間違ってないっていうか」
ドンッと、人魚の尾ひれが青年を殴る。だって……と唇を尖らせて、青年は人魚の顔を見下ろした。人魚も似たような顔であった。
「いいや、もちろん、それはわかっているよ」
吸血鬼は言うが、やはりまた首を横に振る。体格のいい体を縮めて、近づいてきていたゾンビ嬢を見て、眉を下げて笑った。
「だから、傷心なだけなんだ」