第三十二話 ソファーと笑顔とハリケーン篇
「今がら言うごどをよぐ聞いて」
ゾンビ嬢は、ソファーに腰かけるミカを前に、テーブルとソファーの間の狭い隙間で仁王立ちになってそう言った。
ミカは、ゾンビ嬢に担がれ、彼女の自室に連れてこられていた。
この人、女の人なのに俺よりずっと筋力がある……などと思いながら、彼女の肩に体重を預けて揺られている間に涙は引っ込み、寝室に繋がる前室に置かれた革張りのソファーに座らされる頃には、ゾンビ嬢を冷静な頭で観察するまでになっていた。ソファーの上にはマクラメ編みのカバーがかけられており、その色は古いわりに褪せてはおらず、ミカは手触りのいいソレを掌で撫でるなどした。
ミカは、ゾンビ嬢を見返して、別に回答を期待するでもなくポツンと言う。
「喋れたんだ」
しかし、ゾンビ嬢は律儀にもしっかりと、伝えるべきことを答えた。
「あなだのためですわ。あなだと喋りだくて神に祈った時、わだぐじは口がぎけるよう゛になりまじだ。ただし、あなだとだげでず、吸血鬼の奴には、わだぐじが喋れるごどを言ってはダメ。いざという時に、あなだを助けられなくなるがもじれな゛い。わだぐじの名はエリザベス。ねえ、ミカエル。よく聞いで」
「俺はミカです」
「わかってる。でもぞの名前は、素晴らしい天使様からお借りじだ名前でずわ。ぞの天使、ミカエル様は太陽を司り、悪いものからわだぐじたち人間を守ってくれる。ぞの名前をもらったあなだの心は、ミカエル様の名のもと、常に太陽の昇る昼間に置かれていまず。ねえ、今の話は難しくてもいいけれど、これから言うことは本当によくお聞きなざい」
ゾンビ嬢はミカの両肩を掴み、互いが互いの目を真っすぐ見つめられるように、ミカの頭を上げさせた。掴んだ肩は軽く揺らしたつもりが、力んでいたのか勢い余ってソファーの背もたれにミカを押し付けてしまい、細身な彼は「うわっ」と声を漏らす。そのままゾンビ嬢すら前のめりになってしまって、骨組み入りのAラインのドレスの裾が、背後のティーテーブルに乗っていたインク付きの羽ペンをコロリと床に落とした。
ミカは天井を背景に目に映るゾンビ嬢の顔を、驚いて口を開けたまま見上げる。彼女の顔はよく見れば、眼窩の周りや眉の盛り上がり、頬骨の下など、顔の凹凸に沿って縫い目が合った。けれど意外なことに、肌はどこをとってもピンと張り詰めて、ほうれい線どころか笑い皺すらなく、死体であるのに落ちくぼんだ場所もなく、もし生者のように瑞々しく透き通った美肌をしていたら、頬は少女のようにふっくらと赤かっただろうと想像できた。
ゾンビ嬢はミカに館の真実が伝わるように、一言一句ゆっくりと話した。
「ミカエル、あなだの名前は、ご両親があなだの幸せを願ってつけてくれだものでずわ。あなだは故郷できっど愛されていまず。だからあなだは、帰らなければならない。必ずでず。必ず帰らなければならない」
ミカは目を丸くした。
「それが、俺が絶対聞かなきゃいけないこと?」
「ぞうよ」
「俺の話?」
「他の話なんてないでずわ。あなだにどって大事な話が、あなだの幸福以外の話であるはずがないでじょう」
自分にとって大事な話が、自分の幸福以外の話であるはずがない。でしょ。
その言葉はミカに、こちらの姉さんこそは少なくとも信用するべき人であるのだと悟らせた。それからミカは、これから先、この人の体臭については絶対に指摘しないでおこうと心に決めた。体臭だけじゃない、見た目もだ。恐ろしい見た目も、自分より体が大きいことも、動く死体である事実も、ゾンビ嬢の確かな優しさの前では些細なことだった。
「わかった。姉さんが帰らなきゃいけないって言うんなら、俺は本当に、帰らなきゃいけないんだと思う」
ミカは、優しくゾンビ嬢の右肩を押して、自分の隣に彼女を座らせた。この体勢じゃ圧が強いだけで何も落ち着いて話せませんよ。確かにそうね。
「だけど吸血鬼さんは、さっき、この館からは出ることができないって言ってたっすよ」
「出るごとができないわけじゃない。以前に一人、わだぐじの友達が脱出しましたの」
「姉さんの友達?」
「あなだどもと友達でじだわ。でも、彼女の脱出は突然の出来事で、どうやって脱出じだのかはわがらないまま。だから、わだぐじとあなだの二人で、あなだが館から脱出する方法を探しているところでしたの。その矢先に、あなだは風呂で溺れでじまいまいだわ」
「二人でって、吸血鬼さんは?」
「奴はおかしい。館から出る気があるのかも怪しい。奴を信用してはなりまぜん」
「でも、ご飯は作ってくれますよ」
「だから怪しいのでずわ! 昨日の奴の様子をあなだにも見ぜてやりたい……! いえ、とにかく!」
ゾンビ嬢は、ソファーに手をついて勢いよく立ち上がった。その時、マクラメ編みのソファーカバーを自慢の握力でひっつかんでいたことに、ミカも彼女自身も気付かなかった。そのまま腕をガッツポーズのように掲げたため、カバーがズルズルズル! とミカの尻の下からひっこ抜かれて、テーブルクロス引きの要領でミカをソファーの上に残したまま、ソファーカバーが宙を舞う。
宙を舞ったフリンジは、勢いに乗せられて前後に振られ、前へ一回、ミカの顔を殴ったあと、後ろに一回、風でティーテーブル上の羊皮紙を吹き飛ばした。
尻を摩擦で擦られて、その後、顔に謎の衝撃を受けたミカは、驚いた拍子に逃げ損ねてソファーの背もたれを棒高跳びの下手な選手のごとく乗り越える。ソファーもミカの体に引っ張られて後ろに転倒するかと思われたが、それより早く、気づいたゾンビ嬢が足で座板の部分を踏んで止めた。
ミカは全ての事象がほぼ同時に、ハリケーンのごとく巻き起こり、騒音の中、ひっくり返ったミカは呻くように言う。
「わかった、姉さんが言うんなら、俺がんばってみる……」
「ぞんなことより大丈夫ですの!!!???」
ゾンビ嬢は乾いた喉が声帯の勢いに負けて張り付くのにも構わず声を張り上げた。生前なら表情や血の気の引き様など全ての視覚情報を駆使して、ミカに謝罪を伝えられただろうに。元から血が通わず真っ青な顔色が憎らしい。ソファーの向こうに消えながらも、あまりにもタフに会話をつなげようとする、相変わらず健気なミカに駆け寄ろうとして、またもやドレスの裾が、ドタドタドタと机上のものを床に落とした。
「ごめんあそばせ、わだぐじ……!」
背後で本が落下する低い音が鳴るのを聞きながら、ゾンビ嬢は、軽く頭を打ったミカの耳に大声が響かないよう配慮して、囁くように声をかけた。
その時、部屋の扉がギィ……と開いて、ゆっくり細く出来た隙間から吸血鬼が顔をのぞかせた。
「誰? 賑やかに喋ってたのは」
ミカを気遣うように彼の頭に伸ばされていたゾンビ嬢の手が、ビクリと震えて動きを止めた。あれ? と思ったミカが目線を上げてゾンビ嬢の様子を窺えば、彼女は目をかっぴらいていて、次に、ソファーの背もたれの影からパッと戸口の方を見た。
吸血鬼はスルリと部屋の中に入ると、眉をひそめて、「うわ~あ、大惨事」と零した。
「サロンに居なかったから、また探すのも面倒だと思ってたところだったんだけど、大きな音がしたからすぐに見つけられたよ。レディの部屋も、何かというと溜まり場になるね」
言いながら、吸血鬼は床に落ちた羽ペンを拾い、羊皮紙をかき集めて、それから、聖書を、ティーテーブルの上に静かに戻した。
「あ、吸血鬼さん」
ミカが、ピョンッとソファーの裏から飛び出る。元気そうな様子を見て、吸血鬼は顔を綻ばせた。
「やあ、ミカ。災難だったね」
「いいえ? とにかく?」
「とにかく?」
首を傾げたのは吸血鬼だったが、ミカが「とにかく?」と言ったのはゾンビ嬢に向けてのことだった。とにかく? ……先ほどの話の続きを求められている。ゾンビ嬢の言葉は、そのワードを最後にマクラメ編みハリケーンによって途切れていた。ミカだって、何もこの場で話せと言っているわけではないだろう。しかし、次の機会に言う気にもなれず、ゾンビ嬢はソファーの裏に座り込んだまま下を向いてしまい、手にしたソファーカバーを胸元でぎゅっと握って首を横に振った。そもそも何を言おうとしたんだったかしら。ああ、そう、結構長い文を言おうとしたのだ。
吸血鬼がミカのためにしてくれること、その全ての意味を考えなければ、あの変人の思う壺になるって。
ミカは、吸血鬼の視線をソンビ嬢から逸らした方がいいな、と思った。理由は簡単だ。女の子が影に隠れているとき、むやみにジロジロ見てはいけない。引きずり出してもいけないし、出てきなよ、とも言ってもいけない。誰に教えてもらったんだっけ? 母さんかな?
ミカはソファーとティーテーブルのセットがある場所を大回りで迂回して、吸血鬼の隣までやってきた。吸血鬼は、ゾンビ嬢がいる方向から体の向きを変え、ミカと向き合う。ミカは吸血鬼と対峙してから、ふと、相手が木製の板のようなものを抱えているのに気が付いた。
「あれ? それ、何持ってきたんすか?」
「そう、これね。これを見せたくて、君を探していたんだよ。私なりに君の記憶を取り戻す方法を考えて、結果、これに辿りついた。以前、図書室で見つけたんだけど、用がないと思ってそのまま仕舞っていたんだよね。まさか、こんな感じで使うことになるとは思わなかった」
吸血鬼は木の板を持ちなおして、ミカにその表がよく見えるように差し出した。木の板は大きめのノートくらいの大きさで、形もその通り長方形だ。特徴的なのはその表面のデザインのようだ。ミカに見せられた面には、一通りのアルファベットと数字が、黒のインクで彫り込まれている。それから、左上に「YES」、右上に「NO」、中央最下部には「GOOD BYE」。
ミカは困惑に眉根を寄せて、吸血鬼を見上げた。上目遣いのミカを、吸血鬼はニコニコしながら見返して言った。
「ウィジャボードをするよ、青年」




