第三十話 ミカエル篇
「ミカ」
そう鸚鵡返しに言う顔は、両の口角だけが上がった状態で強張って、真っ直ぐ青年を見つめていた。
「そうミカ。俺、自分の名前だけはわかります!」
何もわからないわけじゃないんです、安心してください! とでも言うように、名前はミカだと言う青年の笑顔は晴れやかだ。いくつもいくつも答えられない質問をされて不安だったのだろう、彼の薄茶色の瞳は輝いてさえ見える。それに、心なしか、いつもの青年よりも幼げな表情に見えた。思い出せる記憶を発見し、たまらず緊張が解けているのだろうか。いや、記憶を失って精神年齢が低下している状態なのかもしれない。後者の方が頷ける話だ。記憶喪失という理不尽に苛まれたと思えば、むしろもっと取り乱していいくらいだろう。
吸血鬼は戸惑い、顎に三本指を当てる仕草をし、更にその手から伸ばした人差し指で頬をポリポリ掻いた。
「そうミカ。じゃあ、ミカって呼んだ方がいい?」
「えっと、そうすね。名前で呼んでください! 逆になんて呼ぶんですか? 今までは、なんて?」
「青年だよ。青年とか、君とか」
「なんすかそれ! 博士みたい!」
「博士って、また古いイメージを持ち出してきたな。違うよ、知らなかったんだよ、誰も君の名前をね。なぜなら、君すら知らなかったからだ」
「そんなことある!?」
「そう思うだろうけどね! 実際に知らなかった……というか、忘れていたんだ。君は昨日溺れる前から、ずっと記憶喪失だった」
「俺昨日溺れたの!?」
「そこからかい!? 待って君、何なら覚えてるんだ! そんな状態でよくも名前だけ覚えて……いや、思い出してくれたものだね!」
「それは、思い出したというか、書いてて」
「書いてて? どこに?」
ミカは、「見せないといけないかもしれない思って、持ってきたんすよ」と言いながら、焦茶のズボンのポケットを漁る。彼の衣服は、ズボンからシャツから、全て薄手の羊毛糸製だ。彼の家は牧羊地域の農村、だと思う。彼の衣服の素材やデザインの年代から、吸血鬼は勝手に彼の故郷を推測し、実際、まだ人魚が館にいた時代に、彼自身にも告げたことがある。信用できる人と思われたかったので。
あった! と言ってミカが取り出したのは、幾重にも折り畳まれてくしゃくしゃに小さくなった紙だった。広げると、横がちょうど青年の肘から手首くらいまでの大きさで、数値で言うなら30センチほど、縦は20センチ。本で言えば大判の1ページ分の大きさだ。紙の端は古ぼけて茶色くなっているが、両面に印刷された黒インクの文字は整然と列を成したまま紙に染み付いて、意外にもはっきりと見える。
……。
吸血鬼はミカの手から紙をぶん取った。
「あっ」
声を上げるミカを他所に紙を確認すれば、そこにはやはりプロの物書きが書いたと見られる質のいい文章が、中央寄せで印刷されている。文章の内容はガブリエルの解説だろう。言葉遣いが平易なため、子供向けの天使の解説本であるように思う。
「君、製本されたページになんてことを……!!」
「違くて、その裏面」
ミカが両手でモノを裏返すジェスチャーをしながら言うので、吸血鬼はそれに従い紙を裏返した。そうして目に捉えた絵から、吸血鬼はミカの名前の由来を察した。
紙の裏面にあったのは、全面を使って大きく描かれた大天使・ミカエルの立身図である。芸術的な楽しみを目的とした表現はそこになく、かの天使が直立不動で翼を広げていて、剣と天秤を持つ姿が解説できればそれでいいというような味気ない絵だ。そんな天使の足元に、ヘブライ語で「ミカエル」と名前が書かれている。
「ミカ……って書いてるでしょ。俺、字なんて、自分の名前くらいしか読めないから、これが名前だってすぐピンときました」
「じゃあ、別に名前を思い出したわけではないし、故郷でミカと呼ばれていたような記憶もないわけだ」
「えっ、でも、名前は本当に名前っす。俺はミカです。自信あります」
「君の記憶って、本当にどうなってるの? ……そういうこと、結構多いよね。ふとした時に思い出すような」
「そうなんすか? よくわかんないんすけど……」
「そうだね、記憶を失う前の……、ああ、昨日以前の。君も、度々変にモノを思い出していたけど、その自覚は無かったように思う。自覚がない時にうっかり記憶が蘇るんだ。君の場合、記憶喪失というより、長期的な記憶の混濁に近いんだろうな」
だから、今全ての記憶がないのをいいことに、この極夜の館がミカの家であると刷り込むような案、もっと踏み込めば、ここを故郷だと教え込む案は、愚策だろうな。ふと思い出した記憶と噛み合わないところが有れば、吸血鬼への不信が強まるだけだ。
「うあ!」
「はい?」
「……レディ、今『ミカ』って言ったの?」
「うあぁ♪」
廊下で倒れていたはずのゾンビ嬢だが、いつの間にか復活してミカを吸血鬼と挟む位置に座っている。青年をミカと呼べることが嬉しいのか、るんるんで足をバタバタさせている。
「ごめんね、彼女は喋れないんだ。死後硬直で」
「死後硬直……? あの、さっきチラッと『ゾンビ』って言ったのって、マジなんすか……?」
「ん? うん」
「あっ………………」
ミカは、目玉だけ動かしてそろそろと、自分の左側に座ったゾンビ嬢の足を見た。灰色。ツギハギ。なるほどね。了解した。彼女からは死体らしい匂いの上から、ハーブと花のフローラルな香りを感じる。においが混ざると嫌な感じだから、どっちかにしてくれないかな。
「でも、君が本当に農村出身者なら、ずいぶん高尚な名前をつけられたものだ。いや、田舎者の方が信心深いものなのかな」
「え? 俺の故郷は、農村なんですか?」
「想像だけどね」
「想像……、そうだ。俺、なんでここにいるの? ていうか、ここはどこ? 俺はずっと前から記憶喪失だったって、さっき言いましたよね? それと関係でもあるんすか?」
「……うん。そうだね。君の記憶の状態はわかったことだし、まずは普通に生活できる範囲内まで、この館のことを教えようか。一気に教えるとパンクしてしまうかもしれないだろう?」
「そうっすね。よろしくお願いします」
「畏まらず、ご飯を食べながらね。君の席はテーブルの向こう側の一番端だ」
三人ぽっちの住人たちは、長いダイニングテーブルを下座の三席だけ細々と使っていた。料理が置かれた席に着くと、ミカは初めて館に来た時のような感嘆の声を上げた。
「うわああ! これ誰が作ったんすか?」
「私だよ」
「こんなん作れるんすか!? 全部食べていい!?」
「もちろんだよ。いいから、頼むからそんなに驚かないで……」
初対面みたいで悲しくなっちゃうから、まで言うと、実際初対面のつもりでいるだろうミカには酷であろうと思われた。
初対面、をキーワードに、吸血鬼はまだ自分から名乗っていなかったことに気づく。本名と種族名、どっちで名乗ろうかな……と考えたのち、やはり無難に今までの通り呼んでもらいたいと思った。
「すまない、そういえば、名乗るのが遅れてしまって失礼したね。私は吸血鬼。君には、吸血鬼さんと呼ばれていたよ」
ミカがガタンと椅子を後ろに転がして、後退りぎみに立ち上がった。
「あ、あんた、吸血鬼だったの!!!???」
もしかしたら、ジャクソンって名乗った方がよかったかもしれないなぁと思った。




