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極夜の館―怪物(まよいご)たちのほのぼの日常日記―  作者: 畔奈りき
記憶の水の中で溺れ死んでごらん
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第二十九話 ――頭を回す篇

 予想外の出来事に心が忙しく乱れていても、頭の思考する一部分だけは冷静によく回る。それが吸血鬼の長所であった。尤も、自分の“こだわり”もとい“願い”を脅かされた場合にはその長所も鳴りを潜め、思考の道程の半端な時点から復帰してしまい、なんだかおかしな方向へ舵を切ったまま実行してしまったりするが。

 しかし、幸い今回はそのような事故を起こさずに対応できた。吸血鬼は青年への返答を先延ばしにし、ゾンビ嬢を促して、青年をベッドに寝かせた。

 その頃にはほとんど覚醒していた青年だったが、既に暮らし慣れているはずの自室を、横になったまま目だけ動かす形でぐるりと見回した。無邪気に見えるほど不思議そうにキョロキョロとしたのだ。

 不安げというより、自分が置かれている状況をまるで理解していないような危うげな様子に、吸血鬼は彼を落ち着かせる意図でもって、青年の額に掌を当てた。

 それから吸血鬼は、明かりのついていない夜の部屋に溶かし込むような優しい声を自分の声帯から探し出し、囁く。


「大丈夫だよ。今の君は、少し混乱しているだけだから。ここに怖いものは何もないし、危ないことも、もう起こらない。だから、ゆっくりお休み」

「でも、あんたは誰? ここはどこ?」

「そういうことは、明日の朝考えよう。ね」

「でも、俺は、ここにいていいの?」

「あら」


 吸血鬼は青年の体に掛けた毛布を、彼の肩を覆えるほどまで優しく引き上げた。


「ここにいていいよ。ここは、君の家だもの。私たちは君と共に、ここで暮らしてるんだもの」


 吸血鬼の背後で、ゾンビ嬢も「ここにいていいよ! 安心していいよ!」と、声は出さないまでも何度も深く頷いていた。青年に「死人の匂い」と評された彼女は、この暗闇の部屋の中で、青年の目にどう映っているだろうか。

 吸血鬼である自分を棚に上げた内心の心配だったが、吸血鬼の邪念めいたそれも、やはり杞憂に終わったようだった。青年には、「ここにいていい」という事実の方が響いたのだった。青年は、吸血鬼にかけてもらった毛布の匂いを嗅ぎ、そこに染み付いた自分の匂いに気付くと、毛布に鼻まで潜り込んで素直に目を閉じた。


「レディ」


 青年の眠りを妨げないように、吸血鬼とゾンビ嬢は静かに青年の部屋を出る。


「うああ」


 ドアを閉めたところで、ゾンビ嬢が吸血鬼に向かって鳴いた。見れば、彼女は顔をすっかり伏せてしまっていて、ギョロギョロの目が強調されてもはや怖いと感じるほどの角度の上目遣いで吸血鬼を見ていた。「おお……」と思わず声を上げると、ゾンビ嬢は泣きそうになって口をプリンの形にして、目まで伏せてしまったので、吸血鬼は慌ててよしよしと彼女の頭を撫でた。

 青年をベッドに運び、彼が眠りなおすのを見届けるまでの間は、彼女は彼の「安心できるお姉さん」として振舞っているように見えた。つまり、いつも通りのゾンビ嬢としての振舞いだ。しかし、それも吸血鬼が彼女の行動を促したからできたことであって、青年の前から退いた今、青年が目覚めた直後のような不安な精神状態に戻ってしまったようだった。

 吸血鬼もまた、青年が無事眠ったことによって彼の容態を見るのに神経を注いでいた状態から少し余裕が出てきて、ゾンビ嬢にニコリとほほ笑みかけられるまでになった。

 

「大丈夫だよ、レディ・アンデッド。青年自身にも言ったけど、彼はきっと、混乱しているだけだ。君もさっき見ただろう? 彼は一度溺れて……、不思議な能力で、復活した。こんなことがあれば、目覚めた時に混乱するくらいのことはあると思う。ね」

「う……」

「いやあ、普段より酷く寝ぼけているだけだよ。本当にそれだけ。君も今夜はゆっくり休んで、心労を癒すといいよ。朝起きたら、青年の様子をもう一度確かめようね」


笑顔を浮かべると、吸血鬼自身の心も少しだけ穏やかになった気がする。ピリピリと緊張して、少し冴え過ぎていた頭が冷えていく。

 ゾンビ嬢は小さく返事をして、青年の部屋の斜め向かいにある自身の部屋に消えていった。吸血鬼はその曲がった後ろ姿を見送り、彼女の部屋から物音もしなくなったのを確認すると、もう一度青年の部屋のドアに向き直った。そして、できるだけ音を立てないようにゆっくりと扉を開ける。

 青年はぐっすりと眠っていて、吸血鬼が入室しても起きだす気配はなかった。明かりのない部屋でも、吸血鬼の夜目は青年の顔を綺麗に網膜に映し出す。青年は汗をかく様子もなく、毛布を抱き枕のように抱いて一定のペースで寝息を立てている。


「………………ぃいよ。って……」


 ここにいてもいいよ。だって、ここは君の家なんだもの。


 吸血鬼は半ば無意識にそう声に出して、しかしもう半分の理性が青年を起こさないよう声を潜めたので、彼のつぶやきは非常にかすれて一部分だけがやっと音になるほどだった。


――あれ……、誰……?


 バスタブで溺れ、狼に変身することで回復した青年が、目覚めた直後に見せた、記憶喪失のような反応。もし本当に青年の記憶が失われているんだとしたら――。

 これまでの彼の人生、全ての記憶が失われているのか。それとも極夜の館に来た後の記憶だけが失われているのか。

 青年の状態がそのどちらにあたるのかで、吸血鬼のこれからの対応は変わってくる。


§


 翌朝、青年はいつもと変わらぬ時間に起きて大食堂まで朝食を取りに来た。太陽が昇らない極夜の館において、青年の体内時計は電波時計に向けるほどの信頼を置けるまでに正確である。

 しかし、食堂で食事の配膳をしていた吸血鬼の前に現れた青年には、自分が朝食を取りに来たという自覚がなかった。


「すまない青年。起きるころに部屋に迎えに行こうと思っていたんだが、私ったら遅かったみたいだね。自分で身支度ができたみたいでよかった」

「えっ……まあ、特に問題なく……」

「でも、着替えを置いている場所もわからないんじゃないかと心配していたんだよ。その分なら、昨日は本当に混乱していただけだったと見ていいみたいだね」

「……、え」

「……え?」

「言われてみれば、俺、寝ぼけ眼で着替えてたから……今、着替えが置いてあった場所を思い出そうとしても、思い出せないかんじ」

「思い出せないかんじ? あはは、さてはまだ寝ぼけてるんでしょ。こうやって、朝ごはんを食べに降りてもきたわけだし」

「えっ! 俺朝ごはん食べにきたの!?」

「は?」

「いや、ここまで来たのは体が勝手に動いたからで!」


 吸血鬼は、配膳に使って空になったお盆をダイニングテーブルに置いた。青年は食堂の入り口のすぐ近くで立ち止まっており、吸血鬼はテーブルを挟んで青年に対峙している。二人の間には暖かな食事と、警戒心の表れのような微妙な距離があった。

 吸血鬼は顎をきゅっと引き、青年を見分する。金色の頭がキュルキュルと、自分の“こだわり”を叶える選択肢を演算する。


「……君、もしかして、本当に記憶がないの?」

「記憶って、何の記憶?」

「何の記憶って……そうだね。何もわからないなら、それもわからないかも」

「なんすか。なにその言い方はさ……」

「うん、例えば、私が誰かとか」

「……わからないっす」

「……ここがどこかとか」

「わからない」

「……自分の家がどこかとか」

「え、わ、わからないっす」


 青年の背後で、ゴトンと重たい音がした。青年がびくっと体を震わせながら振り返ると、そこには前方向へバタンと倒れたゾンビ嬢がいた。手は歩いているときの姿勢と変わらぬまま体側につけていることから、何のガードもなしに額を床に打ち付けたようだと見える。


「ううううううううう」


 地を這うような低い唸り声が、床に顔をうずめたゾンビ嬢から響いてきた。青年は「ヒッ」と声を上げて食堂の真ん中まで後ずさりし、ダイニングテーブルの角に腰を打ち付けた。青年はこんな反応をしたが、ゾンビ嬢と長い時間を共にしている吸血鬼には、ゾンビ嬢のうめき声が何を意味するのか分かる。あれは、悲痛の叫びを「王様の耳はロバの耳」的に床に吐き出したものだ。青年が吸血鬼の質問に、「わからない」と答えていたのを、青年の背後でこっそり聞いていたのだろう。館のことはわからない、館の住人のこともわからない。一晩明けても青年の記憶喪失が治っていないショックに、彼女はバッタンと倒れたのだ。

 青年だって、いつもならゾンビ嬢のうめき声を吸血鬼と同様理解する。となれば、吸血鬼だけでなく、ゾンビ嬢についての記憶も、彼の頭からはすっぱぬけているのだ。


「彼女のことは気にしないで。ゾンビだから丈夫なんだ。それより、私の思考に付き合ってくれ。君の身の上を考えるため、つまり君のための思考だ」


 振り返った青年の返事を待たず、吸血鬼は青年が立つ場所の隣にある椅子に、横向きに腰掛けた。

 それから、今度は肌を自覚もない程度に泡立たせながら、極夜の館に関する記憶のみならず、館に来る以前の記憶まで探ってみる。


「出身は?」

「年齢とか?」

「仕事は何をしていたの?」


 こちらについても青年は答えられず、リズミカルに「わからない」と、ポンポン回答を並べていく。とはいえこの結果にはあまり驚かない。館以前の記憶はそもそも、バスタブで溺れる前からずっと青年の中に無かったものだ。

 さて、以上の返答から考えるに、青年の記憶喪失は、「これまでの人生の記憶の一切が抜けている」状態。

 吸血鬼の回転する頭に、一筋白い光が差した。


 しかし、極夜の館ではあまりに一般的でなかったせいですっかり後回しになった次の質問を、ことのついでのつもりで問うた時。返ってきた答えに吸血鬼の顔色はさっと青白く強張った。


「あ、そうだ。名前はどうかな?」

「あ」


 青年はパッと顔を輝かせて言う。


「ミカ」

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