第二十八話 溺れ――その二
――こういうときってどうすればいいんだっけ。
昔、ロンドンで人魚を助けた時は、彼女の呼吸は止まっていなかった。だからそのときは、人命救助の応急処置なども特にしていない。一回もやったことがない。どちらかというと、人命を危険にさらすようなことばかりしていた気がする。ていうか人命救助って習ったことあったけ? 車の免許取る時に講習受けただけじゃないかな。いいや、心肺蘇生の方法はどんな場合も変わらないはずだ。溺水とはつまり肺に水が入って呼吸困難ということだろう。そう、酸素を送ればいいのだ。
周囲の安全を確保。
気道の確保。
「人工呼吸……」
バシンッ!
「痛いっ」
青年の口に口を寄せた吸血鬼の後頭部が、ゾンビ嬢の掌でクイズ番組の回答ボタンのように叩かれた。
「ちょっとレディ!? 何するの!? 心肺蘇生は一刻を争うんだよ!?」
「うああ!」
「何!? え!? 人工呼吸だよ!!」
「うああ!?」
「人工呼吸をご存知ない!? 十六世紀のご令嬢は習ってないかな!?」
「うあっ」
「痛いっ! だから邪魔しないで! やましいことじゃないんだから!」
「うああうあうっあ、うああああうあああうあああうあ」
「別にキスで目覚めさせようとか、どっかの映画の王子様みたいなこと考えてるわけじゃないから!」
「うああああうああああ、うあああうああ!」
「いや青年は私が守るから!」
あ、やばっ!
時代の違う人間に応急処置の理解を得ようとするフリをして、わちゃわちゃシーンを作っている場合ではないんだよ。本当にそんな場合じゃないんだよ。冗談じゃなくないんだよ。
ハッと我に返った吸血鬼は、慌てて青年の様子を確認した。そこで見たのは、青く血の気の引いた青年の顔が、髪と同じ焦げ茶色の毛にどんどん覆われていくところだった。
吸血鬼が息を呑み、鼻から吸い込んだ空気が鼻腔で音を立てる。気道確保のために青年の顎と額を抑えていた手を、思わず放した。
ゾンビ嬢の攻撃が止まった。
津波が町を襲うような、恐ろしいものが迫る時の勢いで、硬そうな毛質の体毛に全身がキレイに飲みこまれると、青年の体はついにその形を変え始めた。服を着ていないので、その変化は吸血鬼とゾンビ嬢の目に隠すものなく映り込んだ。
手足が長く太く伸び、黒い爪が何物も引き裂けるとの想像に難くなく鋭くなる。側頭部にあったはずの耳は跡形もなく毛に覆われて、三角に近い形で頭の上に移動した。顔面も人間らしい形を失い、鼻が前へ突き出して、犬科特有の長い鼻面と、その先に黒い鼻の頭が現れる。
狼男。ウルフマン。
しかし、青年が完全な狼男の姿でいた時間は、瞬きの間ほどもなかった。
口元に太い犬歯が覗いたと思った途端、犬歯はすぐに口の中に引っこんだ。長かった鼻も見慣れた人間の鼻に戻っていく。長い体毛はその体を蝕んだ時の倍の速度で撤退していき、突如行われた異形への変化は、何事もなかったかのように、日常を取り戻すかのように、人間の体を取り戻していく。
全てを眺めていた時間は、長くはなかった。それでも、その間に青年の様子は大きく変わったのだった。今、彼の肺は穏やかに呼吸を行っていて、薄いベージュ色の腹が等間隔で上下している。瞼は閉じたままだが、顔色も健康的だ。ただ、眠っている。
彼に潜在する怪物が、彼の命を救いに来たようだった。
吸血鬼とゾンビ嬢は、静かに顔を見合わせた。
§
「とりあえず、青年をマトモな所に寝かせてあげよう。棚にタオルと……着替えも置いているね」
「うああ」
「わかった、わかった。君に全部任せるよ。体を拭いてあげて、寝間着を着せてあげて」
青年の世話は、彼の貞操にうるさいゾンビ嬢に任せて、吸血鬼は一旦その場を離れる。なんでこんなにも信用がないんだろうね。男だから? こういうのって逆に、同性に任せるべきじゃないのかなぁ。
吸血鬼が向かう先は、浴室の猫足バスタブだ。先ほどは余裕がなく、出しっぱなしのままにしていたシャワーを止める。それから、バスタブの中や周囲を観察した。
「手伝って、コウモリたち」
眷属の黒いコウモリたちも、指を鳴らして呼び出し、浴室を調べさせる。コウモリたちは眷属として吸血鬼の体の中に巣くっているので、吸血鬼がいる限りはどこにだって呼び出せるのだ。
しかし、結構な数で探しても、浴室にも、バスタブにも、異常は見つからなかった。若くて元気な青年が、なぜお風呂で気を失ったのか、その原因がわからない。今日も食事はしっかりとっていたし、体調不良ではないはずだ。
最近は目元の隈も薄くなっていたので安心していたが、やはり「帰りたい」という思いがまだ強くてストレスがかかっているのだろうか。彼が倒れたのは、浴室に問題があったわけじゃないのかな……と思案を始めたとき、ふと横からコウモリが、「キキキキキ」と声をかけてきた。
「ん? なんだい? おや、タオルを持ってきてくれたんだね。ありがとう」
「キキキキ」
吸血鬼にタオルを持ってきてくれたのは二匹のコウモリだった。そのコウモリたちが吸血鬼の視線を引き付けて、それから浴室の戸口に向けて飛んでいく。戸口には、こちらを覗くゾンビ嬢がいた。
「やあ、レディが気を回してくれたの? ありがとう、私ったら濡れっぱなしになっていたね」
青年をバスタブから引き上げるときに、シャワーから出るお湯で肩や髪の毛が濡れたのだ。渡されたタオルで、まずは髪の水気を取る。ゾンビ嬢は、「うああ」と唸って、背中に青年を背負っているのを見せてきた。
「ああ、そうだね。青年の寝室へ運ぼう」
浴室には何もないようだし、ここに残る必要はない。それより、早く青年を寝かせてやらなければ。
ゾンビ嬢と共に廊下に出た時、青年がせき込み始めた。
「ゴホッコホッカホカホッ」
「青年? 目が覚めたの?」
「うああ」
ゾンビ嬢が一度立ち止まり、背中の青年を気遣うように目線を送る。吸血鬼は、青年の息が整うまで背中をさすることにした。
「あ、すみませ……」
「大丈夫だよ、青年? 気分は悪くない? 今、君を寝室に運ぶところだから、もう少し我慢してね」
「匂いが……きつい。死んだ人の」
吸血鬼は、目を丸くした。チラ、とゾンビ嬢の様子を窺うと、彼女は口を四角く開けて、首をガクンとかしげている。しっかりショックをうけていた。青年は鼻がいいから、そりゃいつも彼女の死臭が気になっていただろうと想像できるが、それでも、口に出して言ったことはなかったのだ。
青年はまだ朦朧とした様子で、半分閉じた瞼のまま、周囲をぐるりと見渡した。斜め上ぐらいの位置を一通り眺めた後、やっと吸血鬼の姿を認めたように、ピタリと、首を回すのをやめる。吸血鬼は、青年と目が合ったと思ったあたりで眉をハの字にして、頭がはっきりしないらしい青年に、もう一度声をかけようとした。
「せ――」
「あれ……、誰……?」
吸血鬼は言葉を失い、思わず後ずさりして壁に背中をぶつけた。ゾンビ嬢が泣きそうな顔をして、青年を背負う腕にぐっと力を込めた。




