第二十八話 溺れ――その一
――我々人ならざる者は、人を殺して初めて、本当の怪物になる。
――同族は同族を殺さない。すなわち、人を殺したということは、人でなしの証明だ。
――否、我々人ならざる者は、体つきから生態から、生まれたときから人でなし。
吸血鬼は大食堂から、図書室へと移動していた。図書室を普段から利用する者は吸血鬼以外にいなかったため、そこは半ば私室化してしまっており、本棚に近い所には寝具がわりの棺桶まで設置している。
その棺桶にかぶせてある蓋が、綺麗に閉じていた。吸血鬼は極夜の館の家事を一新に引き受けていて、作業の仕上がりはきめ細やかだったが、自分の身の回りの整理に限っては、案外雑……というか、必要最低限な所があった。昨夜から今朝にかけては気が滅入っていたこともあり、今朝棺桶から目覚めたときには、蓋を人一人が通れる程度にずらしたのみで棺桶から脱出し、ずらした蓋は戻しもせずに図書室を出て行ったのだった。昼に一度図書室に来た時も、「まあ今夜もかたここで寝るだろうし」と思って、蓋を閉じなかったのだ。
その蓋が、今は綺麗に閉じられている。自分以外の誰かが閉じたのだろうか。そう考えた所で、青年が以前、この棺桶をベンチがわりにして座っていたのを思い出した。彼が今日どこかのタイミングで図書室に来て、座りやすいように蓋を閉じたのだろうか。
――……何を調べに来たのだろう。
確かめるため、吸血鬼は青年を探して二階に上がった。すると、二階の廊下で、青年より先にゾンビ嬢に出くわした。彼女は自室に入ろうとしたところで、吸血鬼の姿を認めて足を止める。
「レディ・アンデッド、青年を見なかったかい?」
ゾンビ嬢は吸血鬼の質問に首を傾げ、腕をフラダンスのようにナミナミとさせた。
「お風呂? まだ入ってるの?」
訝しげに眉をひそめながら、吸血鬼は青年の自室のドアを無遠慮に開ける。しかし、青年はそこに居なかった。まさか、本当にまだ入浴中なのか。青年がお風呂に行ったと言ってゾンビ嬢が大食堂に来てから一時間は経っているが。
「あの子、普段は三十分もかからずにお風呂から出てくるのに。急にこんなに長風呂したら、のぼせてしまうよね」
だいたい、あの子、バスタブにお湯も溜めないでしょ。
吸血鬼は不穏な展開を確信し、もしかしたら、浴室で足を滑らせて頭を打ち、気を失っているのかもしれない。そうでなくとも、彼の身に何かあったに違いなかった。吸血鬼とゾンビ嬢は視線を交わし、それからすぐに、浴室へ走り出した。青年がいるのは、二階の小さいプライベート用の浴室だ。サロンの反対側にあたる、廊下の端である。
「青年!? 生きてる!?」
浴室のドアを開けると、広い浴室に充満していた湯気が脱衣所に流れ込んできた。ある程度湯気が捌けて見えたのは、浴室の真ん中にネコ足のバスタブだけがポツンとあり、そのバスタブに向けて、付属のシャワーが水を降らし続けている様子。青年の姿は見えない。
「青年……?」
吸血鬼はズボンの裾を折り、ゆっくりバスタブに近づいた。それから、バスタブの中に満たされた湯と、水面からチラと出る茶髪を認めた途端、自分がスブ濡れになるのもいとわず湯の中に手を突っ込んで、意識の無いその体を引き上げた。
「青年! しっかり! 何があったの!?」
青年の体を出水させると、バスタブに溜まっていた湯がゴボゴボと音を立てて排水されていった。青年の体が排水溝に蓋をしていたためにシャワーから出る湯が留められていただけで、青年が意図してバスタブに栓をして、湯を張ったわけではなかったのだ。
吸血鬼は青年の体を担ぎ、脱衣所の床に寝かせた。視界の端にゾンビ嬢が慌てている様子が見えるが、声をかけて落ち着かせてやる余裕が、吸血鬼にもなかった。
「息は……」
してない気がする。目を閉じたままの青年の口元に耳を寄せるが、何も感じ取れなかった。




