第二十七話 吸血鬼の煩い篇――その二
吸血鬼は大食堂のダイニングテーブルに一人で着席していた。席の位置は、食堂の戸口に一番近い場所。戸口を背にして座ると、大食堂の天井画が正規の方向から眺められる。その席で、吸血鬼はローズヒップティーを嗜んでいた。酸味が喉を通って、神経が過敏になったような感覚になる。このハーブティーの赤色が、血液を啜れない生活の苦を紛らわしてくれるわけだが、果たして、こうやって思考を巡らせるときは、もう少し甘味を含ませたお茶の方がよかったのかもしれない。「疲れたときには甘いもの」という民間療法は、一部間違いだと聞いたこともあるが……――考えながら、吸血鬼はカップを煽るついでに天井を仰いだ。
大食堂の天井画。怪しい四枚のタブローを張り付けたその天井装飾は、吸血鬼からすれば趣味が悪いと言わざるを得なかった。吸血鬼には芸術的センスがないため……というか、あまり興味がないため、黒の絵具ばかりを使ったこれらの絵画の、作品としての価値はわからない。黒と一言で言っても所によって青っぽかったり緑っぽかったり様々なので、手間はかかっているんだろうなとは思うが、まあ、わからないのでどうでもいい。吸血鬼が気に入らないのは、そのメッセージ性だった。
極夜の館の建築様式は十六世紀前後の英国マナーハウス、その時期なら、まだ貴族が自分の趣味嗜好に合わせた宗教画を職業画家に発注するという文化が活発だった頃だろう。この天井画もそうやって、職業画家に描かせたもののはずだ。普通なら神だの聖人だのの絵を発注されるところ、魔物のような黒い人影と、悪魔の象徴である逆十字を描かされた当時の画家は、描き慣れないものに悩まされて、大層苦労したんじゃなかろうか。なぜそのようなテーマなのか、発注主に疑問を呈したかもしれない。その画家が、黙らせられてなきゃいいが。
「食堂に絵を飾るなら、食材に祈りを捧げるような、もっと敬虔な絵にすればいいのに」
職業画家の時代にはまだ生まれていなかった吸血鬼は、自分なりの価値観で一人ごちる。ただ別に、絵に込められたメッセージの内容がずれているという点も、吸血鬼が顔をしかめている直接の理由ではなかった。
「まあ、どれだけ文句を言っても、仕方のないことなんだけどね。食堂に絵を飾るなら、その絵の内容はともかくとして、その行為の理由は、客人をもてなすためだろう。それを言えば、ここにこの絵を飾るのは理に適っていると言えるだろうね。食堂には基本的に客人を通すものだから、私たち『客人』に向けて、確実にメッセージを伝えられるんだもの。……気分が悪い。そういう、私たち『みたいなの』に響くよう仕向けられたこの絵のメッセージ性が」
まるで、館の主人に憐みの目を向けられ、その目でじっと監視されているようで。
監視というと違うだろうか? この館には監視カメラなどがあるわけではないのだから。吸血鬼が感じているこの良くない気分の正体は、主人の掌の上で踊らされている感覚だ。誰がこの館を作ったのかまではわからないが、なんのために作ったのかはよくわかる。なぜって、しっかり絵に描かれているんだもの。そういう、絵が表す意味の核心部分については、青年には少し過激で、且つ彼の余計な記憶を呼び覚ます可能性があったから、吸血鬼の心内だけにこっそり留めているのだけど。
この館は収容所だ。それで、更生施設だ。
「黒い人影は私たち『怪物』。怪物が十字に磔にされて、その後人間に生まれ変わるのは、罰を受けて更生するというストーリーを表す。全く、誰が黒い影だよ。僕の髪は、仮にもこんなに美しい」
吸血鬼は、食堂全体へ声を行き渡らせるように真上へ顔を向け、ついでに腕を天井に向けてぐっと伸ばし、声高に宣言した。
「人間にしてやろうなんて、余計なお世話だよ」
真上を向いたことで、背後にある食堂の入り口が、視界の上端にフレームインした。
「あ……」
「……や……」
吸血鬼の視界に逆さまの状態でフレームインしたゾンビ嬢が、吸血鬼と目が合ってびくっと身を震わせた。
「……やあ、レディ・アンデッド。食堂に戻ってきたんだね。ローズヒップティーを飲むかい?」
震える声の吸血鬼は、ゆっくりと姿勢を正す。テーブルに置いてあったティーポットの蓋を少し開けて中身を確認すると、再び気まずそうに声を絞り出して言った。
「その……一人分しか淹れてないから、ちょっと待っててもらわないといけないんだけど」
「うあうあ」
吸血鬼が座る椅子の横まで移動してきたゾンビ嬢が、ふるふると緩く首を振った。そう、レディは飲まない? 飲まないね、そっか、余計なことを言ったね、本当に。余計なことを。
吸血鬼はズリズリと尻を滑らせて椅子の背もたれに沈み込み、両手で顔を覆った。
「……聞いてた?」
「うあ」
「……ていうか見てた? 私が何もない空間に向かって指を差して、戦線布告みたいなことをしてるとこ」
「うあ」
表情も変えないまま、コクンと大きく頷くゾンビ嬢は可愛かった。
「違うんだよ……ちょっとね……、完全に一人だと思ってたから……。えどこから聞いてたのかなあ。その直前は? 自分の髪がどうとか言って……あっ、あ墓穴かな? 違うんだよ? 私は別に、ナルシスト野郎でも独り言野郎でもないから……ないから……」
それから、ふと大事なことに気が付いて、吸血鬼はガバリと姿勢を正す。
「青年は?」
彼の前では年上ぶっていたいので。
吸血鬼の問いに、ゾンビ嬢は両腕をハワイアンダンスのようにくねらせて答えた。ふうん、お風呂か。
「じゃあしばらくは、彼に話を聞かれる心配はないみたいだね。君から彼に全てをしゃべってしまうような心配はないわけだし」
ゾンビ嬢が、ううんとうなった。そうそう、君は死後硬直で言葉をしゃべれないのだからね。
吸血鬼はようやく少し落ち着いて、隣の席に腰かけたゾンビ嬢に向き直った。彼女は、青年と一緒にお風呂には入れないので、彼が入浴中の間は、たいてい吸血鬼と一緒に過ごしている。そんないつもの雑談の体で、吸血鬼はゾンビ嬢に切り出した。
「さてレディ、独白を聞かれてしまったついでに、訊いてしまいたいことがある。君には、今の私が何に怯えているのか、察しがついているのかな?」
ゾンビ嬢は、ブンブンと首を振った。今日の日中、自分が明らかにいつもと違う行動をしていたという自覚は吸血鬼にもあったので、申し訳ない気持ちになる。ゾンビ嬢の大袈裟なほどの否定のジェスチャーは、彼女の疑心と、それに起因する不安を十分に表していた。しかし、申し訳ない気持ち以上の何かもやっとしたものがあって、吸血鬼はいささか突き放したような言い方で次の言葉をつづけた。
「そっか。君なら、青年に対して私と同じ立場にあるはずだから、もしかしたら理解してくれるかもしれないと思っていたんだけど。そうでもなかったんだね」
「う……」
やや俯きがちになって、どことなく壁を作るようなその言葉に悲しくさせられた様子を示したゾンビ嬢だったが、吸血鬼は気にしなかった。
「君は見た目がかわいらしいし、しゃべれない分、マスコット的にかわいがってしまいがちだけど、その精神は意外と大人びていると把握しているよ。だから君とは、この極夜の館に集められたメンバーについて、今一度話してみたいと思っていたんだ」
「うあ……?」
「私が極夜の館に迎えられたのは、人間を初めて殺した直後のことだ」
ゾンビ嬢は、吸血鬼の赤い瞳を、そのギンギンに見開かれた目でまっすぐ見つめた。吸血鬼も、彼女と同じ温度で見返す。高くない、低いくらいの温度だ。
「人魚さんも、人を殺したことがあると言っていた」
「うあ」
ゾンビ嬢は一つ、小さく頷いた。それを見て、吸血鬼は合点のいった顔をする。
「ああ、君は人魚さんから、その話を聞いたことがあるんだね。そうか、だから今日、珍しくここの天井画を見ていたんだ」
「……」
「夕飯にここへ集まったとき、一人で絵を眺めていた時間があったでしょ」
「うあ」
吸血鬼は、食堂の最奥にある暖炉の方に目を向けた。暖炉の左右に飾られた、男女一対の悪魔の像を睨むか眺めるかもどっちつかずなほど冷たい瞳で見て、小さく眉間に皺を寄せた。
「『我々人ならざるものは、人を殺して初めて、本当の怪物になる』と、昔、同胞に聞いたことがある。私には家族がいなかったから、ただ同じ吸血鬼であるだけの他人だったけれど、先輩面して助言して、知らないうちにどこかへ消えてしまった」
この話には、吸血鬼の芯の部分が垣間見えているのかもしれないな、とゾンビ嬢は、彼の話に集中するふりをしてこっそり思った。この人の手を握ってやれば、少しは青年に対してもマトモな態度になるのかもしれなかったが、こういう男に必要以上に関わることは身を滅ぼすことと同じと、元貴族の女性として学んでいた。
「レディ、君も、人を殺したことがあるでしょう。その体を見れば、一目瞭然だよね」
「うあ」
改めて、吸血鬼は自分の考えが正しいだろうことを察した。全く、本当に余計なお世話だと館の主人に中指を向けたい気分である。
「生き物はその本能から、普通同族を殺さない。人間を殺してしまったら、体だけでなく、心までもが人間ではないのだと示してしまうことになる。だから、人を殺した怪物は、真の怪物と呼ばれるんだそうだ。……人を殺したからなんだっていうんだろうね。どれだけ自分が人間と変わらないつもりでいても、どうあがいたって我々は、人ならざるものだ」
この館に『真の怪物』たちを収容して、それらが人の心を取り戻すように更生させようだなんて、意義も何もない取り組みだ。私たちは、生まれたときから死ぬまでずっと人でなし。
「青年もここに来た以上、人を殺したことがあるはずだ」
何の要因か、幸いそれを覚えていないらしいが。
もっと言えば、自分自身が人間ではないこと自体さえ、すっかり自覚していない。
「どうか、彼に、こんな気分の悪い思いはさせないであげて」




