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極夜の館―怪物(まよいご)たちのほのぼの日常日記―  作者: 畔奈りき
記憶の水の中で溺れ死んでごらん
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第二十七話 吸血鬼の煩い篇――その一

 その日、青年は一人きりで図書室にいた。吸血鬼の棺桶に無断で腰かけて、腿の上に本を一冊広げている。大判だが、ページ数はそれほど多くない。絵本に近い形で作られた、子供向けの教育本だった。発行年数は19世紀半ば、端が茶色くなった紙に、黒いインクのみで絵や文字が印刷されている。アンティークだ。

 自分の家に帰るための、今のところ数少ない、有力な手がかり――ゾンビ嬢と自分の両親が信仰していたらしい「宗教」を調べるため、青年はここに、こっそりとやってきた。妙なほど古い本を選んだのは、宗教学やら聖典解説やらの題を冠した背表紙が並ぶ中で、この本が一番読みやすそうだったからだ。ページ数の少なさからか、子供向けの言葉遣いからか、言語か紙質か製本スタイルからか……、なんとなく、とっつきやすそうな気がした。

 青年は背中を丸めて、絵本のとあるページを凝視していた。鼻が紙にくっつくほど顔を近づけて、膝の上の本を覗き込んでいるので、端から見れば、まるで腹痛でも起こしているようだ。

 正確にはページ全体というより、そのページの左上の位置に書かれた文字を凝視していた。それは、天界に住み、神に仕え、下界の人々を助ける、天使と呼ばれる存在を紹介したページ。天使の中でも最も高位の存在で、他の天使たちを統率し、悪を払うとされる彼。青年が見つめる先では、その彼の名前は、「ミカエル」と紹介されていた。

「ミカ……」

 青年は、たった一人の広い図書室に、ポツンと二音、吐き出し、溶かした。


§


 吸血鬼は焦っていた。しようと思えば、想定できたことだ。しかし、想定したところで、どうしようもないことだった。

 人魚が館から出て行った。青年やゾンビ嬢には本当に突然のことに思えただろうが、吸血鬼には、あの瞬間以前から、少しずつ異変を感じ取れていた。

 あの朝、赤いドレスを着て朝食の場に現れた彼女。その、赤髪のスレンダーな美女に、吸血鬼は見覚えがあった。彼女は過去に――、吸血鬼が極夜の館に来るよりも過去に、吸血鬼の前に現れ、「セレーン」と名乗ったはずだ。

 あの朝よりもっと前まで遡ろうか。彼女が館に来た日のことを振り返ろう。玄関先で倒れていた人魚を、ゾンビ嬢が担いで吸血鬼の前まで連れてきた日のことを。

 人魚の姿を見た瞬間、「セレーン」だとすぐに気がついた。吸血鬼の記憶に、人魚の姿は彼女だけであったし、吸血鬼が極夜の館に来ることになったきっかけとは、元を辿れば人魚な訳だ。あの赤い髪を、忘れるはずもなかった。

 しかし、サロンの大水槽にぶち込まれて幾分か休んだ人魚に、「久しぶり」と声をかけたところ、彼女はくりくりしたアーモンド型の目を丸くして、「誰……?」という警戒を間抜けなほど露わにした。人魚は、吸血鬼を覚えていなかった。吸血鬼は落ち着いて、「失礼、人違いだったようです。初めまして、人魚さん」と取り繕った。

 この館にいる間、吸血鬼が彼女に対して敬語で話していたのは、こういった会話の流れのせいもあったが、ちょっとした罪滅ぼしのつもりでもあった。彼女に覚えがないとはいえ、過去に、吸血鬼は人魚の肩に無理矢理に噛みつき、その血を吸ったのだ。吸血鬼とはそもそも血を吸う生き物であるとはいえ、あれは彼女からしてみれば、明らかに罪であったはずだ。だからこそ、罪滅ぼし。彼女の気がつかないところで、自己満足の罪滅ぼし。

 ――いや、覚えていないはずがない。当時、その後ろめたさからか、「彼女は自分を忘れているのだ」と都合よく解釈して終えていた状況を、彼女が館から消えた今、吸血鬼は再び考え直していた。

 吸血鬼は、彼女の命を脅かした。あれをそっくり忘れられるほど、当たり障りのない振る舞いではなかったはずだ。むしろ、トラウマになったり、死ぬまで恨まれたりしてもいいような出来事で。つまり、彼女は、館に来た時点ではまだ、吸血鬼のことを知らなかったのだ。

 吸血鬼は、セレーンに出会った日を思い出す。彼女には不可思議な点がいくつもあった。当時の彼女の言動は、「変わった女性だなぁ」という印象と共に、吸血鬼の脳裏に刻み込まれている。まず、テムズ川から拾ってきた彼女が目を覚ましたとき、彼女は、まるで吸血鬼のことを知っているかのような口ぶりで話し始めた。しかし、吸血鬼にとっては、あの日が彼女との初対面である。相手は自分を知っている。自分は相手を知らない。この状況、立場を逆にすれば、館で吸血鬼が人魚と再開した状況と、まるきり同じではないか。要するに、逆だ。時系列が。自分と彼女では、初対面と再会の時系列が逆なのである。

 海に住むはずの人魚が、テムズ川の上流から流れてきたことも、当時の吸血鬼からしてみれば不思議な点であった。この不自然で怪しい状況も、今なら説明に難くない。人魚は、極夜の館からテムズ川に放り出されたのだ。海から迷い込んできたのではない。茨の森から飛び出したのだ。その、人魚が森から飛び出すという出来事が、極夜の館内の時系列では昨日にあたる。今頃、人魚は過去の吸血鬼と再会していることだろう。――極夜の館に来る前の吸血鬼(ジャクソン)と、再開したつもりで、初対面しているだろう。

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