第二十五話 支離滅裂な君へ篇--その三
青年とゾンビ嬢が揃って大食堂に行くと、長いダイニングテーブルには既に食事が並んでいた。
メインは夏野菜たっぷりのカレードリア。サニーレタスとコーンのサラダを副菜に、玉ねぎをたっぷり使ったミネストローネ、ブラックペッパーを纏う蒸し芋、酸味の効いたパプリカの和え物。
「ヴィーガンになったんすか?」
「目玉焼きはあるじゃないか」
そうだ。確かにその通りだ。カレードリアの真ん中には、チーズに埋もれるように半熟の目玉焼きが乗っている。そういえば、チーズやら牛乳やらを使っている時点でヴィーガンとは言えないね。ははぁ。
青年は徐にスプーンを手に取った。
「ちょっと君、行儀が悪いよ。ドリアをぐちゃぐちゃに混ぜ返さないで」
「本当に肉はないのか調べてるんすよ。間違ってササミでも入ってないかと」
「それでもせめて、先にいただきますしなさい」
「いただきます」
青年はスンと居直って十字を切った。
「あーあ、きれいに目玉焼きだけ残してほじくっちゃってもう」
「当然でしょ。目玉焼きって崩したくないものでしょ。崩さないように食べるのが慣わしなんだから」
「そんな慣わしないんだよ。だいたい、崩さないと食べられないでしょ」
「だから、食べる直前まで崩れないようにするんですってば。黄身が破けないようにね、白身の端から食べていって、最後に真ん中だけ残すんすよ。皿の上に、黄色いまんまるのお月様みたいに……」
「ひぇ」
突然、吸血鬼が奇妙な声をあげたので、青年はドリアの皿から顔を上げてそちらを見た。「なんすか」と声をかけてみるも、吸血鬼はフリーズしたように動きを止めたままだった。しかし、束の間の凍結タイムが過ぎて何やら覚悟が決まったような目つきになった吸血鬼は、どういうことだか、青年のドリアを取り上げて、自分の食事が置いてある席まで持って行ってしまった。
「ちょ、ちょちょちょちょ何してんすか、俺のドリア!」
「ドリアの心配はいらないよ。君の分まで食べたくなったわけじゃないさ」
「じゃあなんで自分のナイフとフォークを手にとった!? なんで俺のドリアにナイフとフォークを突っ込んだ!?」
「ちょっと黙ってて、集中してるんだから」
「なんで俺のドリアに集中……うわあああー!」
吸血鬼はナイフとフォークをお好み焼きのヘラのごとく使い、青年のドリアから目玉焼きだけを器用にも摘出してしまった。そのまま自分のドリアへ二つ目の目玉焼きとしてトッピングしようと、UFOキャッチャーのアームのように並行移動しかけたところ、その腕を掴んで止める灰色の手があった。
「うああ」
「……レディ・アンデッド……」
「う・あ・あ・あ」ーー「や・り・す・ぎ」、である。吸血鬼の隣で彼女のうめき声を聞いていた青年にはわかった。
先程サロンにて前触れなく喋れるようになったゾンビ嬢は、青年に、「このことは吸血鬼には内緒にしておくように」と指示した。その理由は後で話すとされ、つまりは、青年は何もわからないまま彼女の判断に従っている。彼女はいつもと変わらない様子を上手く演じていて、吸血鬼の前ではうめき声しか発さないつもりらしかった。
ゾンビ嬢が喋れることを前提として知っていれば、うめき声でも、その途切れ方や発音の違いから、彼女の言いたい言葉を推測することが可能だ。逆にいえば、青年がうめき声を解読していると知れれば、吸血鬼に彼女が喋れるとバレてしまう切欠になるかもしれない。下手なことをしてゾンビ嬢の意図したことを邪魔しないように、青年は努めて黙っていた。吸血鬼にはうめき声を解読することはできなかっただろうが、ゾンビ嬢が首を横に振ることで、彼女の言いたいことは吸血鬼にすんなりと伝わった。
「ごめん……私、さすがに変なことをしてしまったよね」
吸血鬼は、目玉焼きをそっと青年のドリアに戻した。黄身はまだ丸く残ったままで、ぐちゃぐちゃのドリアとのコントラストでキラキラと輝いて見える。
その皿上の様子をぼうっと眺めて、吸血鬼が言った。
「……黄身、割っていい?」
「だめっすよ。今割るなら俺が割ります」
「どうぞ」
青年は吸血鬼の隣に立ったまま、手にフォーク一本だけを持って、ぷすっ……と静かに黄身を刺した。空いた穴から音もなく半熟の黄色い蜜が流れ出す様を、三人は黙って見届けた。吸血鬼は馬鹿げて見えるほど神妙な表情をしていて、青年の顔はむすっとぶすくれていた。
「一体何がそんなに気に食わなかったんすか。黄身だけ残すスタイルがそんなに変ですか?」
「別に好きにしたらいいと思うよ……? 私はこういうの、先に卵を割って具材に絡ませて食べるけど」
「じゃあなんで目玉焼き奪おうと……?」
「だって君が……」
「黄身が……?」
そこで言葉を途切れさせ、吸血鬼はズッと鼻から息を吸った。吸ったまま吐かない。それ以上喋んないなら、もう勝手にご飯食べちゃおうかな……と青年がドリアの皿を持ち上げた時、すがるような小さな声で、吸血鬼はゆっくり喋り始めた。
「殺生は……」
「はい?」
「殺生は、良くないよ……。青年」
「……」
俺がいつ、殺生したって言うんすか……?
青年はそうは言わなかった。
「……殺生は、良くないですね……」
会話の前後で文脈が繋がらなさすぎて、同意するしか出来なかったのだ。もうやだなぁ……。吸血鬼さん、人魚さんが居なくなって寂しいとか、代わりに俺らを甘やかそうとか、そういう方向性じゃなく単純に様子がおかしいなぁ……。青年は、今日の皿洗いを全て引き受け、吸血鬼はもう部屋で休ませることを決意した。
青年にとっては何の意図もない、鸚鵡返しの返事だったが、吸血鬼の心には響いたようだった。吸血鬼は顔を俯かせた状態で、上目遣いになって青年の様子を伺い、その困惑しすぎて何色も浮かんでいない表情をどう捉えたのか、ほっと力を抜いて微笑んだ。
「そうだよ。殺生は良くないよ」
それから、まるでいつもの様子で、「お騒がせして悪かったね、レディ。さぁ、食事にしよう」と、ゾンビ嬢を振り返った。
その直前まで、ゾンビ嬢はその大きな瞳でじっと、大食堂の天井を観察していた。四つに仕切られた天井画。四つの枠一つ一つに登場する黒い影の人物。それを目で追う視界の端に、席に着くことを促す吸血鬼の手が映るや否や、ゾンビ嬢はふっと首を下げ、「うあっ」とにこやかに返事をした。