第三話 わがままと茨の森の謎篇
水泡が赤いウロコを包み、肌を撫でるようにして昇って水面に消える。その一部始終が見えた。
「何を憶測ばかり言って。この子を怖がらせるんじゃありませんよ、人魚さん」
背後に近付く気配に振り向けば、青年の後ろに寄り添うように、吸血鬼が立っていた。一人分のティーセットをトレーに乗せて持ち、目線は人魚を見上げている。その赤い目とまっすぐに見つめ合った人魚は、不意に拗ねたように口を尖らせた。
「え~、憶測じゃないよ。わたしにはわかるんだもん。この辺りには海の気配がしない」
「そんな、『気のせい』で終わるような勘で、人を混乱させるんじゃないと言っているに」
吸血鬼は青年から離れ、ダイニングテーブルの席に戻った。ポットから注がれるのは真っ赤なローズヒップティー。ワインのような色あいで、それらしくカップの縁に赤い色素がついたりする。青年はこっそりと深呼吸した。ローズヒップティーのすっぱいのが、青年は苦手だった。
「じゃあ、気のせいじゃない証拠を教えてあげるよ」
その言葉に、青年が人魚に視線を戻すと、ちょうど人魚がビシッと指を差してきた。
「ここ最近は、ご飯にお魚が出てこない」
「うああ」
ゾンビ嬢は、自分の隣で食後のティータイムに耽る男の顔を見た。可愛らしい彼女と横目で視線を交わして、吸血鬼は一度、カップをソーサーに置く。
「確かに、人魚さんがこの館に来た頃は、コウモリたちが運んでくる食材には魚や海獣の肉が多かったね。逆に、ここ最近は大きな獣が採れないようで、中々血の流れるものにありつけない」
「う……」
ゾンビ嬢は、吸血鬼の言葉にコクンと頷いた。それから青年を見て、もう一度コクンと頷く。人魚は、得意げに顎を上げた。
「ほら、ごらんなさいよ。わたしは間違ってないんだからね」
「じゃあ、ということは、どういうことなんすか。まさか、森が移動してる……ってわけじゃ、ないっすよね」
吸血鬼は再びカップに口をつけ、その白磁の肌越しに、目を細めて青年を見返した。
「……私はこの館に長年住んでいるが……、森が移動しようがしまいが、私にとっては気に留めるほどのことではないよ。だからこんなことを言ってみるけどね……。君だって、茨の森の茨たちが、日々、その枝の伸ばす方向を変えていることは知っているだろう? 毎度毎度、ここから逃げ出す度に森の形が変わっているんだ、身をもって知っているはずだ、ね? うん……つまり、この森の茨は動いているんだ。茨が動くのだとすれば、枝だけでなく、その根まで動くと考えた方が自然じゃないかな。この館は茨の木に囲まれているから、茨の根っこの上に乗った状態なんだとすると、館は森ごと、長年をかけてゆっくり土地を移動している……なんて、考えることも可能だよね」
「いや」
青年は、少ない唾を飲み込んだ。
「ってことは、俺、森から出ても家に帰れないかもしれないってことっすか」
「うーん、それはどうだろうね」
吸血鬼は、頭の後ろで手を組む。
「君。君の服装は、おそらく山村のものだよね。リネンのシャツに羊毛の上着、きっと羊の放牧が盛んな地域だったのかな。君の故郷がその辺りとすると、きっとここはまだそこからそう離れてはいないと思うよ。だって、今日のステーキは、羊さんのお肉だからね」
「え」
青年は、初めてまじまじを自分の服装を見た。正直、服の生地が何であるなど気にしたこともなくて、茨の森に辿りついた時からずっと着ていたものだったから、いっそ自分の体の一部かのように思っていた。こんなところから自分の情報が出てくるなんて。青年の思考とシンクロするように、人魚も「陸ってそんなんあるんだ」と呟いた。驚いた青年の様子に、吸血鬼は小さい子どもを揶揄うような声で続けた。
「いやあ、実は私もね、茨の森がどれほどの速度で移動しているのかはわからないんだよ。人魚さんもおっしゃったけれど、君が来るまで私たちは、全く人間らしい習慣づいた生活をしていなかったんだからね」
「人間らしい生活って?」
「一年間棺桶に引きこもって寝たきりとかじゃないってこと」
「ああちょっと、人魚さん」
吸血鬼の様子は、不摂生が親にバレた子どものように、青年には見えた。
「とにかく、私たちは君よりずっと長寿なんだ。朝の来ないこの森の中では、時間感覚は余計に曖昧になる。だから、人魚さんがいた海から、君の山村に移動するまで、すごく長い時間が経っていても不思議じゃないと思うんだよ。君が来てからの最近の様子を見る限り、茨の森の移動速度は車ほど速くないんじゃないかな。つまりそれほど焦らなくても、しばらくは君が家に帰れなくなるほど遠くに移動することはないと思うよ」
「ってことは、まだ間に合うってことっすよね」
で、いつかは間に合わなくなるってことだ。青年は音をたてて席を立った。
「俺、今から出ていきます」
「えぇ? ご飯はー?」
青年は吸血鬼の制止も聞かずに部屋を飛び出した。といっても、全くやる気のない制止だったので、これくらいで止まるなら今まで何度も脱走を図ったりはしていないという話だ。青年は廊下を走っていく。ゾンビ嬢がオロオロとしながら青年を追って部屋を出た頃、玄関の扉が開く音が聞こえた。
吸血鬼はカップに再び口をつけた。一口分に満たない残りを飲み干してしまう。吸血鬼と言えばワインを飲むんじゃないのかと、青年に言われたことがあった。吸血鬼にとっては、ワインよりお茶に馴染みがあったし、ローズヒップの酸い味が、ワインよりも人間の血に近いと思っていた。
「あんた、あの小僧を家に帰したくないの?」
「帰したくないというか、帰る術がないだろうにと思いますよ。あの子ったら、何度やれば思い知るのかねぇ」
「わかんないじゃん、いつか成功するかもよ。あんたなんか、出て行こうとしたことすらないんじゃん」
「……あーあ、全部食べていけばよかったのにね」
青年の皿には、まだステーキが一切れと、サラダとキッシュが少し残っていた。好きなものから先に食べるタイプなのだ。
「……ラップしておいてあげようかな」
「な~、ていうかさ、なんでこんな狭い場所でご飯食べてるわけ? いつかドアの角に水槽ぶつけそうなんだけど」
吸血鬼がティーセットをトレーに戻して立ち上がれば、それを皮切りに人魚が一層賑やかな声で言い始めた。水槽の中で体勢を変え、ばしゃんなどと、尾ひれが跳ねる音を鳴らす。吸血鬼が気にもとめずにキッチンに引っ込んでしまうので、人魚はまた声を張り上げた。
「おっきい方の食べるとこあんじゃん!」
「いやいや聞こえてますって。あなたこそ、朝も言ったでしょ。食堂の方は掃除してないんですって」
しばらくして、黒いコウモリが一匹、部屋のドアから中に入ってきた。吸血鬼の顔の横でふらふらと彷徨うと、ふっと吹かれたように消えてしまう。
「あ、あの子が帰ってくるみたいですね。しまった、今日はタイム計ってなかったな……代わりに出迎えをしよう」
「マジで趣味悪いと思うんだけど」
人魚を置いて、吸血鬼は部屋を出ていく。玄関ホールに着くと、丁度青年がドアを開け放って戻ってきた所だった。ゾンビ嬢が、ダメージをくらったドアを心配そうに支えている。君は青年とドアのどちらを気にしてここで待っていたんだい? 見慣れた光景が急におかしく思え、自然と笑みが浮かんだ顔で青年に向けて腕を広げた。
「お帰り、青年。茨の森からは出られたかな?」
「出られてたら戻ってこないんすよね~!」
青年は、ぜえぜえと息を切らせていた。確かに、戻ってくるまでの時間が普段よりずっと早かったかもしれない。この様子なら、走りっぱなしで立ち止まりさえしなかったのではないだろうか。出られないのがわかっていて、走るだけ走ってすぐに引き返してきたのか。吸血鬼は、「森から出たところで家までの道順がわからないだろう?」という言葉をひとまず飲み込んだ。
「吸血鬼」
「ん? どうしたの、やけに真剣な様子だね」
「俺、館の謎を解きますよ」
青年は息をととのえていた。吸血鬼は、青年の顔を見返す。背の高さは、青年の方が少しだけ低い。ドアの方からゾンビ嬢が戻ってきて、視界の端にフリルが散った。
「館の謎?」
「はい、俺らがなんでここに呼ばれたのか、それがわかんねえと森から出れねえんでしょ、結局。そういうことなんでしょ。あんたいつも言ってるじゃないっすか。館にふさわしい者がここに来るんだって。吸血鬼とか人魚とか、変なのがいっぱいいる中に、なんで人間の俺がいるのかわかんないけど、それも、なんか理由があってのことなんすよね。その理由が分かれば、森から出られるんすよね」
「理由がわかっても解決しなければ出ることはできないと思うけど」
「いや、解決まで含んでるんだって! 俺が言ってる『解く』ってことは!」
「解決できる類のものじゃなかったらどうするの?」
「え?」
青年は顔をしかめた。吸血鬼の表情筋には動きがない。
「……あんた、他になんか知ってることあんの?」
「いいや、あいにく、私たちがここに来た理由についての知識は無いね。しかし、心あたりがないわけじゃない。特別、私自身のことについてはね」
「俺のことはなんもわかんないんじゃないっすか」
「まあ」
「ていうか、そのあんたの理由ってなんなんすか。心当たりって」
「……、それについては、とりあえず夕飯の続きを食べながらにしないかい?」
と、吸血鬼が言うか言わないかの辺りで、「うごくシャワー水槽号」の車輪の音が聞こえてきた。それから、ドンドンと何やら不穏な音がして、館が揺れる。しばらく後に、「ね~~!」という、人魚の駄々をこねる声が響いた。
ゾンビ嬢が真っ先にそちらに飛んでいくので、吸血鬼と青年もそれに続く。人魚の姿は、玄関前の地点で既に見えていた。キッチンに続く廊下の手前、ホールに向かって開く大きい観音扉の前だった。館の主人のためにあったらしい、大食堂の扉である。
「何やってんすか、人魚さん」
ゾンビ嬢が人魚に寄り添うので、見かねた青年が口火を切る。人魚は不機嫌そうに……というか、上手くいかずに拗ねているのか、こちらをじっと見つめていた。水槽から身を乗り出して、扉に手をかけている。その体勢では、この重い扉を開くのは無理な話だろう。吸血鬼は人魚の様子を見ながら、先程愛すべき窮屈な食卓で、彼女がグダグダと零した言葉を思い出していた。
「人魚さん?」
もう一度青年が投げかけると、人魚はやっと口を開く。吸血鬼は口を真一文字に結んだ。
「わたしこっちでご飯したい」